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第7話 カレーと過去と

「周くん、起きて」 「……ん」  目を覚ました周の視界には、全国チェーンのカレー屋の看板がある。今日は丸一日病院と大学で過ごしたため、夕飯も外食で済ませようということになったのだ。その道すがら、うとうとと眠ってしまっていたらしい。 「疲れたかい?」 「いや……大丈夫。カレー食うの?」 「ここ、週四で来ててな。僕、カレー好きやねん」 「へぇ……」 「周くんは?」 「俺は……別に好きでも嫌いでも」 「そうか。ほな、いこか」  大欠伸をしながら店に入ると、アルバイトと思しき若い男が、「いらっしゃいませ先生!」と声をかけた。そして隣にいる周を物珍しそうに見ている。 「お連れさまがいらっしゃるなら、今日はテーブル席にしますか?」 「うん、そうやね」 「了解です、こちらへどうぞ」  店の一番隅の席に案内され、周はふう……と深いため息をついた。一日いろいろありすぎて、体も頭もくたくただ。 「お疲れさま。ありがとうな、今日は」 「うん……。ていうか、脳波や心電図まで取られるなんて、聞いてないんだけど」 「うん、すまん……探求欲に抗えへんかった。ヴァンパイアのことは、何から何まで知っておきたくて」 「ったく……」  採血を終えた後、遥か彼方の出口に向かって歩いている時だった。口腔外科のプレートの前を通りかかった時、真人は突然ギラギラと目を光らせ、『君のことをもっと知りたい』と言い出したのだ。どうも、周の牙がどういう仕組みになっているのか知りたくなってしまったらしい。  路生に連絡を取り、真人はあっという間に周の全身精密検査の予約をこぎつけた。そして周は逆らう間もなく様々な装置に放り込まれ、身体中を調べあげられてしまったのである。データは厳重に秘匿され、真人と路生以外が見られないようになっているらしい。  それで一日が終わってしまい、昼食を食べる暇もなかった。空腹で倒れそうである。 「ご注文、何にします? 先生はいつものですか?」  ぐびぐびと水で空腹を紛らわせていると、さっきの若い店員がやってきた。 「そうやな。周くんはどうする?」 「俺は……これ」  どっしりとしたトンカツの乗ったカレーを指差すと、真人がオーダーしてくれた。  待つまでもなくあっという間に提供された大きな皿には、ほかほかと湯気を立てる飴色のカレーがたっぷりと注がれていた。山盛りの白ご飯の上に、ドンと乗っかったトンカツは迫力満点。揚げ油の甘い匂いとスパイスの香りが混ざり合い、食欲をいかんなく刺激する。 「うわぁ……旨そう」 「さ、食べよか」 「いただきます!」  こうしてあたたかい食事にありつける幸せを噛みしめながら、周はばくばくとカレーを頬張った。美味い、ものすごく美味い。これまで食べていたレトルトカレーなんか比べ物にならないほど、めちゃくちゃに美味かった。  父親は仕事で遅かったし、母親は周と食事を取りたがらなかったため、カレーといえばいつも自分でレトルトを温めて食べていた。不意にわびしい記憶が呼び覚まされそうになったけれど、今は目の前にある食事に夢中になる。 「おいしそうに食べるなぁ、君」 「だって、美味いもん。腹減ってたし、余計美味い」 「ふふ、せやな。若いんやし、いっぱい食べ」 「真人だってまだかろうじて二十代だろ、若いじゃん」 「かろうじて、は余計やねんけど」 「ていうか、真人はなに食べて…………げっ」  四分の三ほど平らげたところで真人の皿を見てみると――これは何だ。おどろおどろしくも濃密な赤にまみれた、毒毒しいカレーだ。皿の縁のほうはグツグツと煮え滾っているし、赤唐辛子がゴロゴロと溺れている。白飯が見えないほどにたっぷり盛られた赤黒い粉末など、見ているだけで火を吹いてしまいそうに辛そうだ。なのに、真人は何食わぬ顔で食している。 「な、何それ。すんげぇ辛そう……」 「脳に刺激が欲しくて、昔この店で一番辛いやつ頼んだらめっちゃ旨くて、すっかりハマってもたんや」 「え!? てことはこんなの週四で食ってんの!? ダメだろどう考えても! 身体に悪いに決まってる!」 「そうかぁ? うまいで」 「こんなもん食って、血まで辛くなったらどーすんだよ!」 「いやいや、大丈夫やろ」 「それに真人さあ、今朝からコーヒーだけとか食パンだけとか……野菜全然食ってねーじゃん」 「う〜ん、せやなぁ。学食でも基本カレーやし……あ、でも野菜ジュースはたまに飲む」 「不健康かよ。そんなんじゃ血液ドロドロまっしぐらだよ! 俺やだよ、そんな血ぃ飲まされんの」 「う、うーん……でも、この生活をかれこれ十年近く続けてるから……」 「まじで?」  呆れるほどに健康に無頓着な男だ。こんな生活をしていて、難病の治療法など見つかるとでもいうのだろうか。今はギリギリ二十代なのでなんとかなっているのかもしれないが、この先ずっとこんな食生活を続けていていいはずがない。早死に街道まっしぐらである。 「……分かった。俺が飯作る」 「えっ? そんなことできるん?」 「あんまりしたことねーけど、あんたよりはマシだと思う」 「いや……でも、悪いし」 「悪いもクソもねーよ。俺はな、マズい血なんて飲みたくねーの。真人が健康になれば、もっと美味い血になるかもしれないし」 「ぼ、僕の血は不味かった? あんなにおいしそうに飲んでたのに……」 「昨日は味わう余裕なんてなかったもん。これからの話をしてんだよ」 「なるほど……」  若干傷ついたような顔をしている真人である。周は最後の一口をきれいに平らげ、ごちそうさま、と合掌した。 「それに俺、週四でカレーとかちょっときついよ。なんか適当に作るからさ」 「そう……? ほな、お願いしよかな」 「スーパー寄って帰ろーよ。近所にあるって言ってたろ」 「うん、ある。酒とパンくらいしか買ったことないねんけど、きれいやし、結構広くて良い店やで」 「は!? 酒も飲むのかよ!」  周はさらに呆れてしまった。医者(研究者だが)の不養生とはよく言ったものである。だが、真人の好きな食べ物の話をしていたら、何となく和んだ空気になってきた。  そんな中、周の心にちょこちょこと顔を出すのは、ついさっき感じたもやもやだ。路生という医師のことが、どうにも気になってしまうのである。 「ところでさ……。あの路生とかいう、ビッチな人って……」 「び、ビッチて……よう知ってんな、そんな言葉」 「いや俺、もう16だし。普通だし」 「そんなもんなん?」 「んなこたどーでもいいんだよ。ていうか、あの人と真人って……」  二人の関係についてもやもやしているとはいえ、どういうふうにそれを言語化したらいいのか分からない。しばらく口をもごもごしていたら、「おさげいたしまーす」と空のカレー皿を若い女性店員が運び去って行った。  すると、ようやく真人は何かを察したらしい。「あ〜」と頬を掻きながら、こう言った。 「僕と路生はな、幼なじみやねん」 「へ、幼なじみ?」 「僕ら京都の生まれやねんけど、もともと家が近所で……まあ、付き合いも多くて」 「……それが何で、揃って東京の病院で働いてんの?」 「ええと」  真人は激辛ドロドロカレーをぱくりと口に含み、さっきよりもつらそうな顔をして咀嚼している。何やら言いにくそうな表情だ。何か事情がありそうで、周のもやもやはさらに募った。 「礼泉大と附属の医療センターは、難病治療において最先端をいく施設やねん。僕らはどうしても、あの病気の治療法を探したかった。だから……やな」 「……」  何やら奥歯に物が挟まったような言い方だ。周はぴくぴくと眉毛を震わせ、むうっと頬を膨らませた。これではまるで事情がわからない。  あの病気――『水晶様皮膚硬化症』についての説明は、真人から聞いたばかりだ。周もその病名くらいは知っていたが、身近でその病で苦しんでいる人物はいなかったため、どこか遠い存在だった。患者数がそこまで多いことも、そんなに苦しい病気なのだということも、十年生存率についても、何も知らなかった。  その病を治す力が、本当に自分の血液に含まれているのだろうかと、妙に巨大な責任を背負ってしまったような気がしていた。真人がああまでして求めるものを、自分は持っているのだろうかと。  そして同時に、『真人の役に立ちたいと思っている』という自身の感情にも気づいてしまう。だがそれを素直に認めたくない周は、必死で葛藤を打ち消そうと苛立っているところだ。『手に入れたねぐらを失いたくないだけ』だとか、『せっかく手に入れた血液の供給源を失いたくないだけ』だと、思おうとしていた。  真人の人間関係なんてどうでもいいと思おうとすればするほど、気になるのだ。なので余計に、真人のすっきりしない態度が落ち着かない。周はテーブルの上に身を乗り出し、さらにこう尋ねた。 「十三回忌って、誰の?」 「え……聞いてたん?」 「聞こえたんだよ。……な、なんか気になっちゃったっつーか」 「……」  真人の表情が明らかに強張っている。眉根を寄せ、苦しげに唇を引き結ぶその表情は、周が踏み込んで良い領域を超えてしまったのだと、ありありと物語っているようだった。真人への親しみを感じ始めている今だからこそ、真人にそういう顔をさせてしまったことが心苦しくて、悲しくて、そんな自分に腹が立つ。 「あ……ごめん、俺」 「あ、いや……。というか、まさか君が、そんなにも僕に関心を抱いていたなんて……って、ちょっとびっくりして」 「えっ。い……いや、ちょっと気になっただけだし! 別に、話したくないなら話さなくてもいいよ!」  大慌てしながら両手をぶんぶん振り、周はぐびぐびぐびとコップの水を飲み干そうとした。が、コップは空だ。周が顔を真っ赤にしながら俯いていると、真人が小さく息を吐いた。ため息をつかれたのかと思ってゆっくり顔を上げると、真人は困ったように笑っている。 「別に隠すことでもないねんけどね。ちょっとな、思い出したくないこともいろいろあったもんやから」 「……え?」 「僕な、双子の兄がいててん。兄貴……明人(あきひと)っていうねんけど、十三年前に亡くなったのは、そいつ」 「え、ふたご……?」 「そう。水晶様皮膚硬化症で、死んだんや」 「あ……」  寂しげに目を伏せつつも、真人は口元で懐かしげに微笑んだ。だが、それはあまりにも悲しげな笑みだ。やはり聞くべきではなかったのではないかと後悔し始めていた周だが、真人はもう一つ息を吸って、こう言った。 「路生は、明人の恋人やってん」 「えっ、こ、恋人?」 「そう。僕ら三人、あの病気に人生振り回されてなぁ……。それで意地になって、治療法探してんねやろなぁ」 「……」  真人は独り言のようにそう呟くと、スプーンを置いて窓の外を眺めた。  明るい店内を写し、鏡のようになった窓を見つめる視線の先には、今は亡き片割れがいるのかもしれない。

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