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第11話 患者の背中

 昨日は果てしなく遠いように思えた指定難病病棟だったが、路生が車を停めた職員用駐車場からは、流石のように近かった。  検査を受けるべく、そこから一般病棟へと向かう予定だったが、周はふと、入院病棟を見上げて足を止めた。 「どないしたん。行くで」 「あのさ。……その、例の病気の患者さんとかって、会えんの?」 「え? 会えるけど……どないしたん急に」  患者に会うつもりなんてまるでなかったのだが、真人の片割れの話を聞き、なぜだか患者のことを知っておかねばならないと思うようになったのだ。真人の求めるものを、自分が持ち得ているかどうかはまだ分からないのだが。  周の神妙な表情を、路生はじっと窺っていた。興味本位で患者を見たいと言い出したのではと思われているのかもしれない。だが、周は真剣だった。逸らすことなく路生と目線をかわしていると、路生は小さく鼻を鳴らした。 「ひょっとして、真人になんや聞いたんか?」 「えっ? あー……」 「ふうん……なるほどね」  路生は何かを察したらしく、目を細めて周を見ている。とうとう周が目を逸らすと、じりじりと路生が顔を近づけてくる。周は必死でそっぽを向き続けた。 「どこまで聞いたか知らんけど……まぁ、ええやろ」 「えっ……いいの?」 「大昔のことや。……別に君に知られたところで、どういうこともない」 「……う、うん」 「俺と、真人のことは?」 「え? ……それは、知らねーけど」  その問いは、暗に真人と路生の間に何かあったということを意味しているようにしか聞こえない。だが、その意味を尋ねる前に、路生はさっさと病棟の方へと歩き始めてしまった。 「あ、ちょっ……」 「ほら、患者に会いたいんやろ」 「あ、うん……」  つかつかと早足に歩き出した路生のあとを、周は慌てて追いかけた。  今日は白衣姿ではなく、ラフにブルゾンを羽織っただけといった格好だ。こんな場所には縁がなさそうな若者のように見えるが、路生の背中には、周が想像することもできないような重い何かがのしかかっているように見える。  その重みを、路生と真人は共有しているのだろう。そう思うと、自分の存在がひどく場違いなものに思えた。     +  入院病棟の中には、独特の匂いが漂っている。  消毒液の匂いに混じって、人工的な甘ったるい香りと、何かが焦げたような匂いが、濃密な霧のように沈殿している。  ここだけ空気の密度が高いような、不思議な感覚だ。病にはそれぞれ独特の匂いがあるというが、これが『水晶様皮膚硬化症』の匂いなのだろう。徐々に高まりゆく緊張感に唾液を呑み下し、路生のあとをついて歩いた。  すると、さんさんと朝日が差し込む、少し開けたスペースに出た。自動販売機やテーブル、窓辺には座り心地の良さそうなソファが並んでいる。  そのソファの隅っこで、スマートフォンをいじっていた一人の少年が、路生に気づいて顔を上げた。すると、仏頂面だった少年の表情が、かすかに光を浴びる。  周と同じくらいか、少し年上だろう。上背があり、しっかりとした体つきをしたその少年は、病院にいることがそぐわないように見えるほど健康に見えるのだが……。 「今日は休みでしょ。どうしたんですか、路生先生」 「おはよう、桜間くん。今日はちょっと、親戚の子を預かっててな。ちょっと院内を案内しててん」 「親戚?」  スマホをポケットにしまって立ち上がった少年は、路生のすぐ後ろで緊張の面持ちをしている周を見下ろし、鼻を鳴らした。直立するとまたでかい。180センチ台に手が届きそうなのではないだろうか。ボサッと伸びた黒髪は若干長すぎる気もするが、重たげな前髪の下から見え隠れする目力の強い瞳には、突然現れた周を値踏みするような鋭さがあった。 「周くん、こちらは桜間隆太(さくらまりゅうた)くん。高校二年生やんな?」 「はい、十七です」 「じゃあ、周くんの一個上や」  険しい目つきに圧倒されながらも、周は努めて平常心を保ちつつ、じっと隆太を見上げた。身長差があるので、どうしても上目遣いになってしまうのが悲しいところである。 「でかいから、もっと年上かと思った。えーと……よろしく」 「どーも」  ――目つき悪……。そりゃ、いきなり健康体の俺みたいなのが来て、気にくわねーのは分かるけど……。  というか、このでかい男のどこにも、真人から説明を受けたようなものは見て取れない。長袖長ズボンという格好だから、ひょっとしたら服の下に病巣が隠れているのかもしれないが……。  つい、周の目つきも探るようなものになってしまう。それに気づいた隆太の目つきが、さらにギロリときつくなった。だが、路生は緊張感の走る若者二人をよそに、のんびりした声でこんなことを言った。 「あ、せや。医局にもらいもんのドーナツあんねやった。とってくるから、ここで食べよ。ちょっと待っててな」 「えっ、ちょっ……」 「聞きたいことあるなら、自分で聞いてみ。何事も経験や」  そう言ってひらりと手を振り、路生はすたすたと廊下を歩いて行ってしまった。取り残されたデイルームに、トゲトゲしい沈黙が落ちる。  ――あの野郎……気まずい空気に気付いてるくせに、放置かよ……!  「で、何しに来たの、お前」  ジロジロと周を睥睨しつつ、隆太はどこまでも無愛想な声でそう言った。路生がいなくなった途端、攻撃的な口調である。だが、周も気の短い方であるから、つっけんどんな態度に素直にカチンときていた。 「は? 初対面の相手にお前呼ばわりされる筋合いねーんだけど」 「どうせ興味本位の観光気分で、俺らの身体見に来ただけなんでしょ? ここはさ、見世物小屋じゃないんだよねー」 「ち……ちげーよ! そんなんじゃなくて!」 「じゃあ何しに? 健康な身体を見せつけに来た? 変な病気になって、かわいそうな俺らを哀れみに来たわけ?」 「そんなんじゃ……っぐ」  ぐい、と胸ぐらを掴まれて、周は思わず顔を歪めた。  真人の片割れを奪った病の姿を、この目で見てみたかった。真人の求める自分の血液が、どのような病を治す力を持っているのか、それを知りたかった――などと、言えるわけがない。それに、興味本位かと言われると、違うとも言い切れない。実際、真人の話を聞くまでは、患者に会おうなどと思ってもみなかったのだから。 「ほんっと、お前みたいなのうぜえんだよ。路生先生の親戚だか何だか知らねーけど、わざわざ病院まで来て何? そんなに見たいわけ? 俺の人生奪った、コレが」 「うわっ!」  どん、と突き放され、周は床に尻餅をついてしまった。痛みに顔をしかめていると、隆太はおもむろに長袖のシャツを脱ぎ捨てる。そしてくるりと、周に背を向けた。 「……わ」  あまりの眩しさに、目を細めた。窓から差し込む朝日を受けて、まばゆく輝くものがある。  繊細で、透明度の高いクリスタルのような楔。それが、大きく広い背中に、びっしりと突き立っている。  ひとつひとつがきらきらときらめき、隆太が呼吸するたびに上下する肉体と連動して、光が揺らめく。それは想像していたものよりもずっとずっと美しく、そして言いようのない禍々しさを孕んだものだった。  あの一つ一つが、いずれは彼の肉を突き破り、痛みを与えて死に至らしめるのだ。  真人の片割れ・明人を殺したように。  隆太も、明人も、周と同じ歳の頃だ。この若さで、理不尽に病に侵され、苦しみの人生を余儀なくされるなんて――  言葉も出ない。  自分の人生も過酷だと、不自由なものだと思っていたが、彼らに課せられたものはもっと過酷だ。周はゆっくりと立ち上がり、隆太の顔をじっと見つめる。 「……なんだよ。何とか言えば?」 「ごめん……。俺何も、知らなくて」 「は? なんだそりゃ。はい、コレで満足だろ。帰れば?」 「でも……っ! 軽々しい気持ちでここに来たわけじゃねぇよ。俺は、」 「ああもう、うるさいな。もう帰れって言ってんだよ!」 「あっ……」  どん、と荒々しく胸を押されて、周の華奢な身体がぐらりと揺らぐ。二、三歩よろめいた周の背中が、どんと誰かにぶつかった。そして同時に、隆太がはっと目を見開いている。 「……宇多川先生」 「えっ!?」  弾かれたように振り返ると、周の背を支える真人の顔が見えた。肩に添えられた大きな手のぬくもりに、強張っていた身体から力がふわりと抜けてゆく。 「……真人」 「桜間君、検査結果の悪化で苛立つのは分かる。……でも、こういう形で人にぶつけんのは、どうやろう」 「……すみません」  隆太は唇を噛み、俯いて謝罪の言葉を口にした。だが、やはりその表情はまだ不服げだった。真人は周の方に手を置いたまま、静かな声でこう続けた。 「目に見えへんハンディキャップを抱えてる人はぎょうさんいてはる。普通に暮らせているように見えても実は困難を抱えてて、誰かの手助けを必要としている人もな。……この子も、そうや」 「……え?」  ちょっと意外そうに見開かれた隆太の目が、周を捉えた。困惑気味に真人を見上げると、真人はそっと自らの肩口に手を添えた。それで、ピンと来た。  ――ああ、そうか。俺も、突然ヴァンパイアの性質が出現して、日常を奪われた……。  しかも、定期的に血液を摂取せねばならない身だ。人に隠れて、コソコソと。家族からは見放され、身の危険にも晒された。理不尽にこれまでの人生を奪われたという意味では、彼らと近いものがあるのかもしれない。  ただ隆太たちは、常に命の危険と隣り合わせだ。そこは決定的に違う。  だが、隆太の目にぎらついていた敵意は鳴りを潜めている。 「……ごめん。突っ掛かって」 「あ、いや……こっちこそ」  何となく、さっきとは違った気まずさがあり、周は俯いて自分の手首を握った。すると隆太は、真人に向かってこう言った。 「こないだの話なんですけど。路生先生に打診されたやつ」 「ああ……治験の話かな」 『治験』という耳慣れない言葉に、周は小首を傾げながら真人を見上げた。すると真人は静かな声で、こう説明する。 「通常、新しい薬が開発されたときは、人に効くかどうか調べなあかんやろ? それで誰かに実験台になってもらって、新薬を投与させてもらわなあかんねん。……本来は、色々と手続きを踏んで、時間をかけて準備していくことやねんけど」 「それって……」  周の血液に治療薬としての力があるかどうかを見るために、この少年で実験をする――そういうことなのだろうか。というか、昨日提供した周の血液の分析結果はどうなったのだろう。気になって、急にそわそわと落ち着かない。 「俺がやります。このクソみたいな病気が治るなら、何だってする」 「けどなぁ……。路生先生は君を推すけど、君はまだ未成年やし、保護者の了解も」 「未成年のほうが進行が早いんでしょ? そらなら、ただ痛み止め飲んで放って置かれるより、可能性があるものに賭けてみたい。もしそれが失敗で、もし万一死んだって、悔いはないです」 「……」 「コレを発症した時点で、俺は家族からは死んだものとして扱われてる。保護者の了解なんていらないんですよ」  そんな隆太の言葉に、周はどきりとした。普通の人間として暮らしていても、そんなことが起こり得るのか……と。  隆太もまた、複雑な家庭環境にあるらしい。真人の難しい表情を見ていれば、立て込んだ事情があることは何となく察せられた。  真人は一言、「……こちらでも検討しておくよ」とだけ言い、隆太を病室まで送り届けた。

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