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第14話 距離感

  「……はぁ、やっと帰ったんだ」  風呂から出てリビングに戻ると、そこにいるのは真人だけになっていた。  ついさっきまで周に、缶ビール片手に家事指導などを施していた路生である。だが、ほろ酔い加減の路生はくどくどと細かいことまで口煩く、教えを乞う立場の周の返事もぞんざいなものになっていた。それが気に食わなかったらしく、さらにくどくどと口やかましくなる路生に辟易していたところで、真人が「風呂入ったで、周くんから行っといで」と助け舟を出してくれたのであった。  これ幸いと風呂場へ逃れたものの、酔っぱらった路生が真人に妙なことを仕掛けやしないかと気にかかり、大急ぎで頭や身体を洗って外に出てきたのだ。  だがその頃には、もう路生の姿はなかったというわけである。 「ちょい飲み過ぎとったからなぁ、タクシー呼んで押し込んだんや」 「あ、そう……」 「あいつ、たいして飲めへんくせにビールなんて買ってきて。どないしたんやろな」 「うん……」  見るでもなくつけっぱなしにされたテレビを前にパソコンを操作しながら、真人は軽そうなビールの缶をあおった。もう中身がないらしい。 「……あのさ。真人と路生って、何かあんの?」 「え? 何かって?」 「……いや、いい。なんでもない」  尋ねてみたはいいがそのあとの言葉が出てこない。周はすとんとダイニングチェアに座り、誤魔化すようにごしごしとタオルで頭を拭いた。  ぱたん、とラップトップを閉じる音が聞こえてくる。タオルの隙間からちらりとようすを窺ってみると、真人がバッチリこっちを見ていた。 「路生、君に何か言うたん?」 「え? えーと……いや、そういうわけじゃねーけど」 「……何かありそうに見えるか? 君には」  真人の声は、いつもより少し硬いように聞こえた。それは踏み込んではいけない部分だったのではないのかもしれないが、周はあえてのように軽い口調で、こう言った。 「わ、わかんねーよ。分かるわけないじゃん、そんなの」 「……」 「でも、なんか、変に距離感保とうとしてる感じがするっていうか……なんていうか。幼なじみなら、もっとこう、気楽な感じで付き合うもんじゃねーのかなって、感じたっていうか」  この数日感じていたことを一息に口にすると、真人は少し面食らったような顔をした。 「……そんなふうに見えるんや」 「な、なんとなくだけど。それに、いいんだよ別に。ちょっと気になっただけだから」 「君はほんまに、見かけによらず細かいことが気になるねんな」 「ん? ……なに、見かけによらずってどういう意味だよ」  すかさず周が憤慨していると、真人は膝に置いていたラップトップをローテーブルに置き、脚を伸ばして天井を見上げた。  そして、どこか遠く、目の前に広がる過去の風景を眺めるような目つきで、こんなことを言った。 「明人の葬儀が終わって、数か月過ぎた頃やったかな。大学に戻ってた路生が、春休みになって帰ってきたんや。仏壇に参って、明人の部屋に行きたい言い出してな……ひどい顔してた、あいつ」 「……」  唐突に始まった昔語だ。周はふらふらと立ち上がり、真人の座るソファの隣に腰を下ろす。 「明人の部屋からは、通りに自生してるソメイヨシノがよう見えんねん。誰もいなくなって、静かで、冷え切った真人の部屋は薄暗くて、春の陽気の中で咲き誇る桜の色が、やたら鮮やかに見えた。それを、懐かしそうに……いや、寂しそうに眺める路生の横顔が、痛々しく見えるくらい、きれいに咲いてて」  真人は姿勢を正し、今度は自らの膝に置かれた拳を見下ろした。 「……抱いて欲しい、って言われたんや。抱きつかれて、キスをされて、明人のベッドに押し倒されて。……路生は泣いてて、今にも死にそうな顔をしてた。今、僕が抱きしめておかないと、そのまま死んでまうんちゃうやろかって思って……怖くなった」 「……え」 「路生を抱くのが正しいことやって思った。……でもな、あいつに何されても、僕の身体は反応せぇへんかったし、路生のほうも、おんなじやった」  路生の悲痛な嗚咽が、聞こえてきそうだった。  泣きながら真人にのしかかり、あの白い肌を晒そうとする路生の姿が、なぜだか容易に想像できてしまう。  恋人の片割れに慰めを求めようとしていたのだろうか、それとも……。 「路生は僕の兄のような、家族のような存在や。だから、何とかしてやりたかった……けど、僕には何もできひんかった。明人のベッドの上で抱きしめ合って、一緒に泣いた。外が暗くなるまで、ずっと。……それ以降、路生は僕の前でも気丈に振る舞うようになった。このままじゃあかんような気がして、僕も東京の大学に入ったんや。……それで、ここで一緒に暮らしたら、あいつも少しは落ち着くんちゃうかって思ってた」  真人はそこに周がいないかのように、淡々と独白を続けた。頭の中で何度も何度も反芻してきた苦い過去を、今初めて言葉に乗せて吐き出しているように見える。ひょっとすると、これは今まで誰にも語ったことのない過去なのかもしれない。 「けど、『俺、セックス依存症なんやて。一緒になんて暮らしたら、俺また真人のこと襲うかもしれへんよ?』 ……なんて言って、路生は僕を笑った。あの時のことを、責められてるような気がしたな」 「そ、そんなの……! そんなことねーだろ。真人は、ちゃんと路生を慰めようとしたんだから」 「……うん」  真人はようやく我に帰ったように瞬きをし、周のほうを向いた。そして、そっと遠慮がちに、周の頭の上に手を置いた。 「僕は……無意識のうちに、明人の身代わりになることを拒否してたんかもしれん」 「身代わり……?」 「もし、あのとき仮にセックスができていたとしても、それはなんの慰めにもならへんかったやろう。それは僕にとっても同じや。路生の存在は近すぎる。あいつはいつまで経っても『明人の恋人』で、『僕らの兄』。そういう存在やから」 「今も……?」 「……うん。それに、いやでも明人を思い出させる僕のこの顔を、ほんまは路生かて見ていたくないかもしれへん。僕らの間に妙な距離があるとすれば、そういう複雑な感情のあらわれかもしれんな」 「……そっか」  する……と頭に置かれていた手が降りてきて、周の頬に触れた。思わず頬擦りしたくなるほどに、真人の掌はあたたかく、涙がにじんでしまうくらいほっとする。  だが、真人はすっと手を引っ込め、「ごめん」と言った。 「周くんとの距離感も……気をつけるから。気持ち悪いかもしれへんけど、もし血が必要なときは、我慢せんと言うんやで」 「あっ……あ、あの、待って!!」  苦笑を残して立ち上がった真人を追って、周もすっくと立ち上がった。 「昼間のことだけど……!! 俺、真人をキモいなんて思ってないから!!」 「え? あ、いや……そんな気ぃ遣わんでも」 「違う違う! あの時は、びっくりしたから! 嬉しくて、びっくりしすぎて……どうしていいか分かんなくて、あんなこと言っちまって……」 「……」  周から離れたそうにしていた真人の身体から、ふと力が抜けた。そして、シャツを掴んでいる周の手を、じっと見つめている。 「……嬉しい?」 「うん。……だって俺、あんなふうに優しいこと言ってもらえたの、初めてだし」 「……」 「あんたはいつでも、俺を一人の人間として扱ってくれるし、俺の存在を蔑んだり、軽んじたりしない。……そういうの嬉しかったし、真人に触られるの、すごく安心するし、気持ちいいんだ。だから、」 「ちょい待ち」  す、と目の前に大きな掌が。  困惑しつつ、掌ごしに見上げると、顔を真っ赤にした真人が、もう片方の手で自分の顔を覆っている。 「ど、どーしたの」 「……いや、ちょっと待って。それ以上言うたら……あかんよ」 「は?」 「昼間も言うたけど、僕はオッサンな割にこういうの慣れてへんねん。そんな必死な顔で可愛いこと言われたら……あかん」 「は? 何があかんなの?」 「せやから……そんな嬉しいこと言われたら、う……うっかり抱きしめてまいそうになる」  普段の明晰な口調が嘘のように、真人はへどもどした口調でそんなことを言った。  顔は真っ赤だし、微かに手も震えているようだ。一回り以上年上の、大人の男とは思えないようなうぶな反応だが、周の目には、それがとても好ましかった。  周は、握り締めたシャツをくいと軽く引っ張った。ようやくこちらを見た真人の赤面に向かって、周は甘えるようにこう言った。 「いいじゃん別に」 「……え?」 「抱きしめてよ、俺のこと」 「へっ?」  周の台詞がよほど意外だったのか、真人が無言で固まっている。周は気恥ずかしさを押し殺しつつ、真人に一歩歩み寄り、ふわりと洗剤の香るシャツに額をくっつけた。 「ヴァンパイアだって分かってからずっと、俺……寂しかった。親にも嫌われて、仲良いって思ってた友達とも、いつのまにか距離ができててさ。ヴァンパイアだなんて知られたくなくて、必死だったから」 「……うん」 「飢餓に耐えられなくて、目の色変えて輸血パックに噛み付くとことか、見られてみ? 絶対ドン引きだよな。そういう自分が、俺はすっごい気持ち悪かった。なのに、血は美味くて、満たされるんだ。硬いビニールに牙立ててさ、夢中で血、啜っちゃってさ、馬鹿みてーじゃん?」 「そんなことない」  そっと持ち上がった真人の腕が、周の背中を包み込む。きゅっと軽く抱き寄せられ、真人の柔らかなシャツに頬が触れた。  あたたかくて、心地がいい。心臓が、力強く拍動する音が聞こえてくる。真っ赤な血液を全身へとめぐらせる、命の音だ。 「……あったけ」 「……うん」 「はぁ……いい匂い」  すんすん、と真人の胸元に顔を埋めて、胸の奥深くまで匂いを吸い込む。  真人の身体は見かけよりもがっしりしていて、腕を回した背中には、引き締まった筋肉の感触がある。  吸血中の行為をふと思い出し、周は人知れず顔を赤くした。身体が温まってくると、なんだか妙にむらむらと吸血欲が高まってくる。  ――……欲しい。真人の血も、肉体も、快楽も、全部……。    吸血欲と性欲は連動しているのかもしれない――真人にくっついていて、唐突にそう気づいた周は、大慌てで真人から身体を離した。 「……ごめん、ベタベタして」 「い、いや……こっちこそ」 「……」  甘い気まずさが流れる中、周はようやく真人の顔を見上げてみた。 「ははっ、なんでだよ。真人、顔真っ赤じゃん」 「いやいや……だから。慣れてへんねんて、こういうの……」 「慣れとけよ、大人のくせに」 「いや、そう言われてもなやなぁ……」  真人はクールな表情を保とうとしているようだが、火照った頬はなかなか冷めてはくれないらしい。  それが可笑しくて、なんだか可愛くて、周はまた笑ってしまった。

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