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第16話 隆太の恋?
桜間隆太は、平常時は意外にも落ち着いた男子高校生であるらしい。
とある昼下がり。デイルームで勉強を教わりながら、周はつくづくそう思った。
「あーもう疲れた。休憩きゅうけーい」
「またかぁ? まったく……全然進んでないんだけど」
「隆太んとこの教科書難しすぎなんだよ」
隆太が高校一年生の頃のテキストを借り、周は久方ぶりの学問に勤しんでいるのだ。と言ってもさほど高度なことをしているわけではない。現代国語の教科書を読んでいるだけなのだが。
「中卒じゃこの先大変なんじゃないの? ちょっとくらいは知識つけとかないと」
と、隆太は生真面目な表情で、小言めいたことを言った。だが、それはまさにもっともなことだ。
「んー……この先? 将来とかって話?」
「そーだよ。周は不治の病ってわけじゃないんだ。それなら、成人した後どうしたいかってことくらい、考えとかないとだめだろ」
「……まぁ、そうだよな」
もちろん『ヴァンパイア』であるということは隠しているが、隆太は『周は定期的に薬を飲まないと自我を失う病気』なのだと、路生から説明を受けたらしい。
「将来のことなんて……分かんねーけど……」
「ま、口うるさく進学先や就職先まで指定したがるような親じゃないなら、のんびり決めりゃいいんだろけど」
「うーん……親、ねえ。もう長いこと会ってねーし」
「……へぇ」
隆太はまた意外そうに目を瞬き、それ以上は何も言わなかった。立ち上がり、ウォーターサーバーから二つの紙コップを持って戻ってくると、ことんと周の前に一つ置く。
袖をまくった腕に、きらきらときらめく病巣が見え隠れしている。近くで見てみると、隆太のうなじのあたりから耳にかけても、鱗のように。
向かいに座り、ぱらぱらと教科書をめくる隆太に、周は恐る恐るこう聞いてみた。
「……触ってもいい?」
「え? ああ、うん。いいよ」
テーブルの上に身を乗り出し、手を伸ばして首筋に触れる。つるりとした滑らかな感触は、まさにクリスタルのようだ。隆太の体温を吸っていてあたたかく、呼吸と連動して上下する。ただ見ているだけならば、なんと美しい病だろう。
「痛くねーの?」
「首の方はまだ、平気だ。背中の方はだいぶ進行してるんだけど、路生先生が薬の量を調整してくれてるから、意外と大丈夫」
「そうなんだ」
「きれいだろ」
隆太は自分の腕を見下ろしながら、自嘲気味にそう呟いた。今日の空も秋晴れだ。痛いほどに青い空。ガラス越しに部屋を温める眩い陽光に照らすように、隆太は腕を持ち上げた。
「どうせ治療しても死ぬんならって、自分の身体写真に撮ってネットにアップしてるやつもいるくらいなんだ。ま、進行したらどっちみち病院送りだけどさ」
「……うん」
「そんな顔すんなって。俺、こんなことになって最初はイラついたけど、今は結構スッキリしてるんだ」
「スッキリ? なんで」
「家から放り出されて、やっと自由になれたっていうか。これまではさ、親父に言われるままに勉強とかスポーツとか頑張って、それなりに結果出して、認められようと必死だった。だから、これまでの努力が水の泡になったのかと思うと……それはちょっとな」
「うん……」
「でも、もう頑張らなくていいんだって思うと、急に気が楽になったんだ。薬が効いてりゃ、今みたいに普通に喋ってられるし、外にだって出られる。これまでよりずっと自由なのかもしれない」
秋空を見上げる隆太の横顔には、強がりのようなものは見て取れなかった。今口にしている言葉は本心なのだろうが、周はなんだか、無性に切ない気持ちになってしまう。
「ま、もともとお荷物だったんだし、親父からしてもラッキーだったと思うよ」
「お前の母さん、どうしてんの? 心配してんじゃ……」
「俺を産んだ後に追い出されたらしいから、もう赤の他人だ。きっと、よそで普通に暮らしてる」
「……そっか」
「それに、俺にもいい出会い、あったし」
「え?」
隆太は、ふわりと浮上するような明るい口調になった。周が顔を上げてみると、隆太はちょっとくすぐったそうな笑みを唇に浮かべて、紙コップの中の水を揺らしている。
「え、なに、病院でってこと?」
「そーだよ。他に出会いなんてないだろ」
「ええ? 他の患者さん、とか?」
「それはない。ここの病棟にいるの、ガキかジジババばっかだし」
「え、まさか俺?」
他に思い当たるところがなく、周がこわごわ自分を指差しながらそう尋ねてみると、隆太は露骨に不愉快そうな顔をして、「はぁ?」と言った。
「周さあ、顔がいいのは分かるけど、どっからくるんだよその自信は」
「な、なんだよ、そんな嫌そうな顔しなくてもいーじゃん」
「そりゃ、顔はいいよ、周は。スタイルもいいしさ、将来のヴィジョンがないなら、モデル業なんかもいいかもしれないけどさ。色気がないんだよお前はさ」
「色気……。つーかさ、あのさぁ、顔しかいいとこないみたいな言い方やめてくんない?」
周が憮然として腕組みをすると、隆太は可笑しそうに軽く笑う。ああ、こいつもこういうことで笑えるのかと、周は少しホッとした。
すると隆太は少し声を落として前屈みになり、ひそひそとこう言った。
「路生先生のことだよ」
「…………え? は? なんで?」
「何でって……。分かんないかなぁ」
にやりと笑った隆太は、周をどこか小馬鹿にしたような目つきで見下ろしながらそう言った。路生に対して苦手意識が拭い去れない周にとって、路生の何がどういいのかさっぱり分からない。しかも路生はビッチではないか。純朴な男子高校生が惚れるような相手だろうか。
「隆太ってゲイなの?」
「いや、これまでは普通に彼女いたけど?」
「……いたんだ。じゃあ、何でだよ。路生なんてもうオッサンじゃん」
「おっさんじゃねーだろ!! あんな美人つかまえてよくそんなこと言えんな!」
隆太の大きな声に、デイルームの端の方で面会していたどこかの家族が一斉にこちらを見た。ふたりは慌てて首を引っ込める。
「美人だし、すげぇ色っぽいじゃん。当直明けで疲れてる時の先生なんて、マジでエロくて襲いたくなるんだよな」
「……うわ、変態かよ」
「うるさい。……なんつーのかなぁ、普段は颯爽としててカッコ良くて、ガキどもを関西弁で笑わしてやったりとかしてて、ああ、いい先生だなぁって思うんだ。俺も世話になってるし、色々話も聞いてもらって」
「あーなるほど。憧れが恋になるパターンってやつ?」
「人の話を単純化すんな。そんなことは分かってんだよ。……一回、ここで明け方に二人でコーヒー飲んだことあるんだ。先生は当直明けでさ、深夜に重症患者が新規で運ばれてきたりして、大変だったんやで〜とかって話してくれたりしてさ」
「ふーん」
「その疲れた横顔がさ、すっげーきれいで、エロくて。なんていうのかな、未亡人感っていうの? 抱きしめて守ってやりてーな……なんて、ふっと思ったりして」
「未亡人感」
それはあながち間違いではないな……と、周は隆太の勘の良さに驚かされながら、淡々と話を聞いていた。だが、隆太の横顔には徐々に真剣さが宿り始めている。
「……でも、あと何年かで死んじまう俺が、そんなことできるわけねーだろって、冷静になったりして。たとえ病気じゃなかったとしても、先生から見れば俺なんてただのガキだ。相手にされるわけねーよな」
「……」
「でも、ここにいる間の癒しっていうの? 毎日毎日暇で、考えることなんて絶望的なことばっかで、薬が切れたら、ガキみたいに泣いちまうくらい痛くて……とにかく毎日がクソみたいなもんだったけど。……路生先生がいるから、何とかやってられるんだ」
「……そっか」
あんな男でも、患者にとっては希望の光なのだろう。ほんの少しだけ、路生のことを尊敬してもいいかなと思った。
そして、ただのセフレではなく、隆太のような相手と真剣に恋愛ができれば、路生の傷も癒されるのではないか……と。
「でもなぁ……なーんか、宇多川先生とあやしいっていうか……」
「……はぁ?」
「なんか、幼馴染なんだろ? それってあやしいじゃん? ふたりはデキてんじゃねーかって噂、結構あるんだよね」
「ええ? まじ?」
「だって幼なじみで同じ職場なんて、おかしーじゃん普通。同棲とかしてんじゃねーのかなって……」
「してねぇよ。居候の俺が言うんだから間違いない」
「ほんとかよ。お前というお荷物がいる間だけ、二人で会うの我慢してるとか……」
「だからちげーっての!! だって真人は俺の……っ」
言いかけて、周ははたと口をつぐんだ。
――俺の……何。『何』だって言いたかったんだ、俺。
「何? 宇多川先生は、お前の親戚のおじさんだろ?」
「……う、うん。そーだよ」
「あ〜そうかそうか、仲良しのおじさんを取られたくなくて、ヤキモチやいてるとか? なるほどね、かわいいね」
「うっせ。ほら、続き教えてよ。今度は数学!」
「はいはい。数学はちょっとマシだもんな、周」
路生の話が出来て気が晴れたのか、隆太はいつもよりほんのり顔色がいい。機嫌よく数学のテキストとノートを開く隆太の手元を凝視しながら、周は内心首をひねった。
――『餌』? 『家主』? ……なんだろ。
ここ最近、いつもより間近にある真人のぬくもりを思い出す。抱きしめてもらえる安心感と、甘い感情のたかぶりが蘇り、無性に真人が恋しくなった。
「いっ……てぇ」
「えっ?」
だがその時、隆太が腕を押さえて苦しげに呻き始めた。周はハッとして立ち上がり、隆太の身体に手を添える。
「どうしたんだ? 薬、飲んだんだろ?」
「飲んだ……飲んだよ。……っ、く……なんか急に、腕、痛くて……」
「おいおい、どうしたんだよ。見せて」
ブルブルと腕が震えている。手にしていたシャープペンシルが音を立てて床に転がる。
苦悶の表情を浮かべながら冷や汗を流し、歯を食いしばっている隆太の指の隙間から、あの美しい病の欠片が見て取れる。……だがそれは、今は赤く、血の色に染まっていた。
「……な、んだよこれ」
「せ……先生、呼んで。っ……は、こんな痛み方、初めてだ……」
「う、うん、待ってろ!!」
大慌てで駆け出そうとしたせいで、丸テーブルの隅に腰をぶつけた。軽い音を立てて紙コップがひっくり返り、テキストが水に浸される。
「路生!! 路生!!」
白い廊下に周の声が響く中、隆太は机の上に突っ伏して倒れ込んでしまった。
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