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第32話 溶ける粉雪〈真人目線〉

「おーおーおー、締まりのない顔やなぁ」  研究室棟の中庭でホットコーヒーを飲みつつ休憩をしていると、ぶらりと路生がやってきた。  今日はこの後、蛇男・一色との打ち合わせが控えているため、クリスマス当日だが大学へ出てきているのだ。 「昨日はよっぽど甘ぁい夜を過ごしたみたいやなぁ?」 「うっさいな」  隣に腰を下ろした路生が、ニヤニヤしながら真人の顔を覗き込んでくる。実際その通りであるため、いくら怖い顔をしようとしても、表情筋は引き締まってくれない。 「お前のほうはどやねん? 周くんに聞いたけど、あの狐男となんやあんのか?」 「えぇ? そんなこと気になるん?」 「……別に。お前が変な男に引っかかってたら嫌やなと思っただけや」 「ふっ、なんやそれ。お父さんか」  路生は笑い、ベンチの背もたれにもたれて脚を組んだ。すっきりと晴れた冬空に、ちら、ちらと細かな雪が降っている。 「別になんもないで。ちょっと口説かれただけや」 「口説かれたあ?」 「ま、あっちは俺が物珍しいだけみたいやけどな。見た目のまんま、チャラチャラ軽いやつやで。歯の浮きそうなセリフをペラペラ並べて……ああ、さぶ。さぶいぼ出るわ」 「……さぶいぼて。ほな、なんもないん?」 「ないない。そら、お互い普通じゃないってとこは共通してるし、話すんは楽しいで。でも、そんだけや」  ホコリでも払うような手つきで手を振り、路生は面倒くさそうにため息をついた。その様子を見て、真人はちょっとホッした。娘に悪い虫がつかないかと右往左往する父親の気分である。 「ほな、桜間くんはどないすんねん」 「なんや、そんなことまで知ってんの?」 「彼はけっこうな本気具合やし、桐堂さんもおるし、三角関係やーいうて周くんが面白がっててな……」 「やれやれ」  肩を竦めつつも、路生はどこか楽しげだ。だが、笑顔を引っ込めた後、ふと真面目な顔になる。 「今は、未成年を傷つけずに断る方法についていろいろ考えてるとこ」 「へぇ……。てことは、告られたん?」 「まぁ……な。どないしよな。若いしな」 「え? 年の差の心配でもしてんのか?」 「いやいや、付き合う気ぃなんてないし。患者が医者に惚れるなんて、ようあることや。落ち着いたら目ぇ覚めるやろ」 「……なあ。お前が新しい恋人作れへんのは……明人のことが忘れられへんから、なん? やっぱ」  ずっと胸に抱えていた疑問を口に出してみると、路生がすいと真人の方を向いた。ふと、きりりと整った形のいい目が、金色に揺らめいていたことを思い出す。 「……どうなんやろなぁ。明人が死んで、もう十三年、か」  路生はまた空を見上げて、ふわふわと空に舞う粉雪に向かって、ふうっと息を吹きかけた。 「根本的な問題として、この俺が惚れるほどの男がいいひんってのもあるけども」 「……左様ですか」 「何ていうんやろな。この十三年で、悲しみって感情はだんだん薄れて、消えて、なんやもう……虚しいばっかりで、なにも感じひんくなっててん」 「……そうなん?」 「医者になれたときも、患者が死んだときも、美味いもんを食べても、どんな映画を見ても、……虚しいだけや。何も感じひん。セックスしてる時だけは、ちょっとはマシなような気ぃもしとったけど、最近はただ退屈で、性欲を処理するだけの行為って感じで、もう、誰でも良くて」  つんと尖った路生の鼻先に、ふわりと白い雪が付着する。それは見る間に溶けて消え、後には小さな水滴が残った。路生はそれを指先で拭い、真人の方へと視線を移す。 「明人のこと、ほんまに好きやった。でもな……十三年も経つと、そういう感情って忘れていくねん。それが人間の防衛本能やってことは分かんねんで。つらいことを少しずつでも忘れていかな、人は先へ進めへんからな」 「……せやな」 「忘れたくない、忘れたらあかんと思うのに、ちょっとずつ平気になってく自分が、最初は許せへんかった。そうしてる間に、だんだん、いろんな感情がもつれて、鈍って、なんや全部どうでも良くなってきてた。……でもそんな時に、お前がいきなし『ヴァンパイア捕獲計画』とか言い出すやん? びっくりしたで、ははっ」  ゆっくりとまつ毛を伏せ、路生は笑う。そして一呼吸を置き、どこか懐かしげな声でこう言った。 「周はヴァンパイアで、俺の同類や。初めて見たんや、仲間ってやつを」 「……そうか」 「歳も十六で、明人が死んだ年と同じ。何の因果やろって思ったわ。生意気で、気の尖った野良猫みたいなガキやなと思ったけど、お前と周がゆくゆくはこうなるやろってこと、すぐに分かった。直感でな」 「……」 「俺、真人を取られてまう……って思った。正直。心のどこかで、俺らは二人していつまでも不幸なんやろなって、安心してたとこあったからさ」 「と、取られる……て」 「明人を失って、真人まで……って。俺は焦った。しかも、あの病気の特効薬が俺らの血ぃやなんて、最悪やろ。周にはいろいろ意地悪いことも言ってしもた。大人気なかったけど……俺の気持ちもぐっちゃぐちゃやってん」  真人は、無言でゆっくりと頷いた。周の存在が路生の感情を掻き乱す要素になりうるということが、今更ながらによく分かった。知らなかったとはいえ、残酷なことをしてしまったのだと。  だが路生は、不意にひょいと顔を上げ、思いの外明るい表情で空を見上げている。 「けどな……周が来てから、また感情が動くようになった」 「え?」 「明人のことや、お前とのこと……色々思い出すこともあって苦しかった。けど、それが逆に良かったんかもしれん」  遠くを見つめながら淡く微笑む路生の横顔が、少年時代の姿とだぶって見える。  あの頃の真人のそばには、いつだって明人がいた。そして、双子を見守る兄のような路生がいた。こうして三人で成長してゆく未来が、間違いなく続いていくのだと思っていた。  水晶様皮膚硬化症という奇病により、三人の未来は喪失した。残された真人と路生は、それぞれに過去に縛られ、三人の絆に囚われた人生を送っていた。  周が、変化をもたらしたのだ。  真人の人生が新たに息を吹き返したように、凍りついていた路生の感情さえも溶かしたのだ。  ――ほんまに、感謝しなあかんなぁ……。 「なぁ、真人」 「ん?」 「ちょっとでいいねん。俺のこと、ぎゅってしてみてくれへん?」 「……えっ? 今? ここで?」 「そう。今ここで」 「で、でも……人目が」 「冬休みやで? ここに残ってんのは、研究室に引き篭りっぱなしの院生ばっかりや。大丈夫ちゃう?」 「……ま、まぁ……そうかもやけど」  突然何を言い出すのかと思えば、抱きしめて欲しいとの頼みごとだ。少年の頃のように穏やかな表情をした路生に見上げられていると、何故だか無性に、その願いを叶えてやらねばと思ってしまう。  真人は少し背筋を伸ばして路生の方へと腰を寄せると。そっと腕を持ち上げて肩を抱いた。そして、肩口に額をすり寄せるようにして身を預けてくる路生の肩をさらに強く抱きしめた。 「……はぁ」  少し気の抜けたような、かすかな溜息が聞こえてくる。ほのかに香るシャンプーの香りは、嗅ぎ慣れない大人びた匂いだ。抱き寄せた肩も、痩せて見える割に引き締まった身体も、高校時代に触れた路生の肉体とは異なる感触だったけれど、それでも、とても懐かしい。 「あー……やっぱなんも感じひんなあ。不思議やなぁ、明人に抱かれてたら、あんなにきゅんきゅんしたのなぁ」  真人の腕の中から、路生の間延びした声が聞こえてくる。妙に切なくなりかけていた気分が一気に醒め、真人はフンと鼻を鳴らした。 「なんやねんその言い草は」 「やっぱちゃうねんなぁ〜お前は。何やろ、まるで、弟抱きしめてるみたいな気分や」 「弟……て」  路生はゆっくりと身体を離し、白い歯を見せて楽しげに笑った。そして、真人の頬を両手で軽く叩き、こう言った。 「ええ男になったな、真人」 「え……」 「何考えてんのか全くわからへんような朴念仁やったけど。周とのことがあってから、急にええ顔になって。俺は嬉しいぞ」 「な、なんやねんそれ……」  路生は真人と距離を空け、ベンチに座り直した。 「俺は、もう大丈夫や。心配ばっかかけて、悪かったな」 「い……いや別に。心配なんてしてへんし」 「ふふ、ありがとうな真人。周のこと、しっかり守ったらなあかんで」 「うん……分かってる」  そう言って微笑む路生の表情は清々しい。だが真人の目には、路生が瞳の奥に、一抹の寂寞を抱えているように見えるのだ。  真人の成長を喜ぶ、兄のような顔をする路生だ。そうして真人と距離を置き、真人自身の人生を歩めるようにと背中を押そうとしてくれているのだろう。  この憂いを帯びた瞳が、曇りなく幸せにきらめくところを、見れるものなら見てみたい――真人は心の底からそう願った。

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