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第10話 幸せの条件

ぎゅっと瞑った瞼の裏に、何故か母の顔が浮かんだ。どうして実の兄を愛してしまったのか。疑問は尽きない。単に間違いを起こしただけだったのか……。 俺は実の父親である工という人物を知らない。 顔は雅也に似ているらしいが……。 どんな顔だと、薄く目を開けて密着する雅也を見る。 と、相手も俺の表情を見ながら口づけていたようで、視線が合うと目尻をニヤリと下げた。 男とキスを交わすのは慣れていた。でも、それが異母兄弟とはいえ弟となればいい気はしなかった。 「……もういいだろ。」 やっとの思いで雅也の頭に頭突きを食らわせて、怯んだすきに横へ転がり込むと、俺は足を上げて蹴る真似をした。そうしておいて、少しの距離をとると片手で唇を拭う。熱くふやけた感触。それを手の甲で冷やすと雅也を睨みつけた。 「もうギブアップ……? なぁんだ、男なら誰でもイける訳じゃないのか。」 「バカにするな‼ そんな訳あるかよ! お前、頭おかしーだろ?」 思い切り罵声をあげる。が、雅也は冷ややかな瞳で俺を見る。 この隙に逃げればいいものを 俺の中の何かがそれを阻んでいた。一体どうしたというのか……。 「お前、今まで幸せじゃなかったのか?」 ふとそんな事を訊いてしまう。 この屋敷の佇まいと同化している様な、古く澱んだ空気の中で、こいつの青春時代はどんなだったのか。そんな興味が湧いたのも事実。 雅也はゆっくりと前方に広がる中庭へ視線を向けた。開けられた障子の、その隙間から見える中庭は日本庭園で、遠くに鹿威しと小さな滝の様なものも見える。 「幸せ……って何ですか?生まれてこれ迄、そういった言葉は小説やドラマの中でしか聞いた事がない。少なくとも僕個人がソレを実感した事はありませんね。」 淡々と、それでいて視線の先は何処か哀愁漂うものに焦がれている様な表情だった。 俺の知らない事実をコイツは幼少期に知っていたのだ。そして、腹の底に溜まる澱んだ感情を抱えたまま大人になった。 失踪した親を持つだけでも不安なのに、その根本的な原因をも知る事になって、こんな風に冷えた眼で世間を見て来たというのか。

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