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第92話 謝罪と恐怖
「正直に言う。お前にこの学園で話しかけられたことも、『お前、誰?』って言ったことも、本当に記憶にない。悪い」
ズバッと言われて拍子抜けしたのか、加倉井先輩は聖先輩をジッと見つめたまま動かない。
「けど中学の時に、お前と話したことは覚えてる。あの事件の後、お前が泣きながら俺のところに謝りにきた。こいつは何も悪いことしてないのに、どうして泣いてるんだって思ったからな」
「えっ、それは覚えてるんすか?」
「あぁ。けどな、お前は何か勘違いしてる。俺は『好きでいて、いいよ』だなんて言ってない。『好きにすれば』って言ったんだ」
「え……? う、嘘ですよ。あの時確かに、好きでいていいって……」
「勝手に変換してんじゃねぇよ。妄想が妄想を呼んで、いつの間にかそう言われたって脳で作り替えられたんだろ。それに俺は、お前がいくら性格や容姿を変えようとも、お前の思う『好き』とは同じにはなれない」
たしかに、人を好きになったら、その人としてもいない会話を妄想してしまう。今度は何を話そう、こう言われたいなどの願望が強すぎると、実際に起こったことか妄想か、時々判別しにくくなってしまう。
ぼくも漫画の世界に入り込んでしまうことがあるから、よく分かる。
加倉井先輩の行き過ぎた妄想が誤解を招いたのだろう。
「……悪かったな。今も昔も、いろいろと傷つけて」
聖先輩は、加倉井先輩に向かって深々と頭を下げていた。
加倉井先輩も俯いたまま、「……すいませんでした」とポソっと呟いた。
歩太先輩が場の雰囲気を和ませるみたいに穏やかに笑って、ぼくのまわりでジッとしていたモブ男たちに話しかけた。
「どうだろう。ここは大ごとにはしたくないだろうから、もう二度とこんなことをしないって誓うのなら、この件は内緒にしておいてあげる」
「会長……」
感慨深く呟く男たちは立ち上がり、歩太先輩をはじめ、ぼくや乙葉、それに聖先輩にも謝ってくれた。俯いたままだった加倉井先輩も、ぼくの前に来る。
「……悪かった」
視線は合わなかったけど、ちゃんとそう思ってくれているのは伝わってきた。
ぼくが少し頭を下げると、加倉井先輩たちはゆっくりと教室の外に出て行った。背中を見つめながら、加倉井先輩とは、これからいい友達になれそうな気がするなぁと思っていた。
「雫、手大丈夫?」
乙葉は心配そうにぼくに声を掛けてくれた。
「うん、大丈夫」
「良かったよ。あと少し遅かったら大変なことになってたね」
「乙葉が異変に気付いてくれたお陰だよ。本当にありがとう」
乙葉と会話しながら、ぼくは内心ヒヤヒヤしていた。
先輩二人は、ぼくに何も話しかけてこない。
こっちを向いているのは視界の隅に入っているが、怖くてどちらとも目を合わせることができない。
ぼくは間を持たせる為に、乙葉と適当な会話をするしかなかった。
しかししばらくしてから、聖先輩の声が空間に響いた。
「歩太。鍵、貸して」
歩太先輩はそう言われ、首を傾げる。
「鍵? って、何の?」
「生徒会室。小峰と話がしたい」
ドキン、とぼくの心臓が飛び跳ねた。
久々に名前を呼ばれた気がして嬉しくなったのも束の間、聖先輩のその表情から、いい話ではないっていうのは一目瞭然である。
話したくない。話さなきゃなにも始まらないのはわかるけど。
歩太先輩も、ぼくと同じように困惑していた。
「……一般生徒への鍵の譲渡は禁止なんだ。先生に事前に許可をもらわないといけないし、もし渡したってバレたら」
「うるせ。早く貸せ」
「……」
ずいっと目の前に出されるその手を見ながら、歩太先輩は逡巡したのち、ポケットから鍵を取り出して、おずおずと聖先輩の手の上に置いた。
「ちゃんと、返してよ」と歩太先輩が言い切る前に、聖先輩はぼくの右手首を持って立ち上がらせ、そのまま歩き出してしまった。
長い廊下。誰もいない。
ぼくは足を縺れさせながら、何も言わずに前を早歩く聖先輩に必死に付いていった。
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