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第7話

 予定通りのことをこなして奏くんの家を出たのは7時ごろだった。 『ぜひ夕食を』と奏くんによく似たお母さんの誘いを丁重に断って帰路につく。  両親から信頼されているらしい奏くん。  勉強するといいながらまさか母親のいる家の中で男とセックスしているなんて夢にもあのお母さんも思わないだろう。  さすがに俺としてはふたりきりじゃない家の中でヤリまくるほど無神経でもない。  奏くんはもの足りなかったようだったけど、俺は無難に一回だけシて終わらせた。  奏くんから俺の家は駅二つ離れたところにある。  セックス後の倦怠感を軽く感じながら電車に揺られ、欠伸を噛みしめながら駅を出て歩いていく。 その途中で、会った。 「――智紀」  歩道を歩いているとエンジン音が身近で響き、俺が行く少し先で一台の車が脇に寄ってきて止まった。  4つの輪が連なったエンブレムを冠したメタリックシルバーの車。  静かに開いた運転席から声をかけてきたのはスーツ姿の男――親友の兄。 「紘一さん」  久しぶりに会う松原紘一だった。  たぶん三カ月ぶりくらいだ。  高校生の俺と社会人のこの人が会う機会なんてそんなにはない。  晄人の家に行ったとき偶然出くわすか、パーティで出くわすか。それくらいだ。 「どうしたんですか、こんなところで」  そうは訊いたが、ここで会うっていうことは俺の家に用があるんだろう。  親父はまったく違う職種を歩いているが祖父は松原グループの重役だ。  俺の祖父である順仁(ヨリヒト)は紘一の祖父であり松原グループの現社長とは旧知の中で、もともと家族ぐるみでの付き合いがあった。  俺と晄人が同い年ということもあって、いまでも松原の家と俺の家の関係は密接。  晄人を俺の両親が息子のように可愛がるように、紘一さんは祖父が孫のように可愛がっている。 いやあれは可愛がるというよりも教育係なのか。  いずれ松原を継ぐ紘一さんに祖父は社長にかわりさまざまなことを教えていた。 「智紀のおじい様に御用伺いだよ」  この前会ったときとは違うネイビーのフルリムの眼鏡。  レンズの向こうの目が俺を見つめ細くなる。  7歳年上だから俺にとっては大人。  だけど同じ年齢だろうひとたちと比べると、本当はもう30くらいいってんじゃないのかっていうくらいに落ちついている。  それは生まれ育った環境のせいなのか。  いずれは松原グループの頂点に立つ人だし。  お疲れ様です、と向けられる柔和な笑みに似たような笑みを返せば、乗るように促された。  行先は同じなのだから素直に助手席に乗る。  シートベルトをつけようと手を動かせば、それよりさきに手が伸びた。 「――ありがとうございます」  俺の方へとわずかに身を乗り出し、シートベルトをわざわざ締めてくれる。  瞬間ほのかに香った香水の匂いは以前と変わらないものだった。  柔らかそうなまったく染めていない髪が目前を通り過ぎるのを眺めていると、運転席に座り直す手前で紘一さんの動きがとまる。 「智紀」  ほんの微かに紘一さんは一瞬、眉間を寄せた。 「なんですか」  そしてその手がまた伸びて、俺の左腰のほうへと来る。  その手は俺の制服のポケットへと入り出ていった。 「入れてるだけでも匂いがつく。気をつけろ」  ポケットにあったもの。  コンビニで夾が入れた煙草だ。 「すいません」  あと数本しか入ってなかったそれへと視線を向けると、それはそのまま紘一さんの内ポケットに入れられた。 「あとで返す」 「はい」  結構――こういうところ厳しいんだよな。  喫煙自体じゃなく、足元をすくわれるようなことを、隙を見せる要因となることを作ることを、だ。  まぁ確かにいくら俺が教師から信用があろうが、煙草くさけりゃ不信感を抱かせることにはなるかもしれないが。  でも、一応帰ったら制服には消臭剤をちゃんとかけておくつもりだったんだけどなー。  別にいいけど。  また出てきた欠伸を噛みしめてハンドルを握る手から、前へと視線を逸らした。 *** 「おかえりなさい。紘一くんもお疲れ様」  出迎えたのは祖母だ。  60歳を少し超えた祖母はおばあちゃんと呼ぶには若々しい。  俺のお袋と並ぶと姉妹にさえ見えるほどだ。  片瀬の家を家政婦さんと一緒に切り盛りしている。  ちなみに両親はいまオーベルジュをオープンする準備で忙しく、あまり家にいない。  祖父母と同居する俺の家は純和風の平屋だ。  祖父は茶を嗜むひとで趣味が高じて茶室を作ったほど。  まぁ数年前にリフォームして家の中自体はそんなに和風ってわけじゃない。  俺たち家族の部屋はほとんどフローリングだし。 「お久しぶりです」  礼儀正しく腰を折る紘一さんの横で靴を脱ぎ上がる。  祖母のうしろには40代半ばの家政婦の佐江さんが控えていて、俺は祖母と佐江さんにただいまと言って紘一さんを見た。 「これお土産です。茜さんがお好きだとおっしゃっていた――」  茜、というのは祖母の名前だ。  祖母へと穏やかすぎるとも言われる笑みを浮かべ、柔和な眼差しで祖母に手土産のはいった紙袋を渡している。  その袋に入っている店名のロゴはここ最近祖母がハマってる洋菓子店のものだ。  最近も最近、ここ二週間ほどのこと。 「まぁ、紘一くんいつも悪いわね」  本当に、いつものことながら耳が早い。  つーかどこで聞きつけるんだろうか。 「いえ。みなさんでお召し上がりください。佐江さんはアップルパイがお好きだとお聞きしたのでいれていますよ」  優しげに、だけれど屈託ない笑みを浮かべて言う紘一さんに佐江さんは少女のように顔を赤らめて、祖母は祖母で楽しそうに笑い声を立てる。  ――本当にどこで聞きつけるんだか。  声の抑揚も、浮かべる笑みも、所作も、完璧。  松原グループの後継として育てられたんだからそれもそうなのか。  適当に相槌打ちながら三人の談笑を聞き、しばらくして俺は自室へ、紘一さんは祖父の部屋へと向かった。

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