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第3話

 何なんだよ、むしゃくしゃする。  今度こそは年下の可愛い奴にしよう、と決意して、慎重に慎重を重ねて相手を選んだ(と言ってもやることは結局、アプリに登録されたプロフィールをガン見することくらいなのだけど)  実際に会うと顔も身体もプロフィールの写真と大差なかった(むしろ二知翔の方が『盛った』写真を上げていたから、詐欺だとUターンされたらどうしようかとびくびくした)  今回こそは当たりだと思った。彼は何でも言うことをきいてくれた。でもその『言うことをきく』というのが、ウブさからではなく、余裕からきているものなのではないかと思い始めたとき、脱ぎ捨てたジャケットのポケットから、彼のパスケースが飛び出ているのを見た。免許証に記されていた年齢は二知翔より年上だった。  どうせならとひらきなおって、どっからどう見ても年上の、社会人と付き合ったこともある。こんなひとが兄貴だったらよかったのに、と、事後、彼の胸に背中を預けながら、ぽつりと思った。いや、それじゃあまるで兄貴とセックスしたい、ってことみたいじゃないか。 「君は末っ子かな。少なくとも一番上じゃないね。上にお兄ちゃんかお姉ちゃんかいるだろう。うーん……どっちかっていうとお兄ちゃんかな」と、社会人の彼は得意げに言った。「えーっ、すごーい、何で分かっちゃうんですかあ」 「大体のことは分かるよ」  大体のことは分かる。というのが彼の口癖だった。誕生日とか血液型とか部活とか得意な科目とか好きな体位とか性感帯とか……彼は何でも言い当てたがった。ときには的外れなものもあったけれど、二知翔は「すごーい」と言い続けた。 「お兄ちゃんとは仲、よさそうだね。何かそういうイメージがある。君は甘えるのが上手だから」  でも流石に、それに対して「すごーい、当たってる」と言うことはできなかった。 「仲なんてちっともよくないですよ、最悪です。いつもクソ兄貴氏ねって思ってるんで」  死ね、は言い過ぎたか。彼の表情が強張ったのが分かった。幸い、「君は負けず嫌いっぽいからね。何でもお兄ちゃんと張り合っちゃうんじゃないか」と助け船を出してもらえた。負けず嫌い、というのも違うと思ったが、それに乗っからないと険悪なまま終わってしまいそうだったので、必死で彼にすり寄った。 「習い事とかも、真似してやりたいって言ったり」 「あー、そうですね。確かに。兄貴がスイミング習ってたんで、自分もやりたいってダダこねたのは覚えてます」 「下は上とやって揉まれてうまくなるからなぁ。スポーツ選手なんかたいてい、下の方が大成しているだろ。そういうの見るたび、下の奴らが羨ましくなるんだよ。俺は上だったからさ」 「ああ、何かそんな感じします。習い始めた頃、でも兄貴、なかなか顔に水浸けられなかったんですよ。それでいらいらして、自分ならもっとうまくできる、って、習わせてもらって……」  言いかけて、果たしてそんな動機だっただろうか……と思ったが、「習わせてもらったんです」と無理矢理言い切って、着地させた。そう……そうだ、たぶん、ひとつでも多く兄貴に『勝つこと』を作りたくて、それで何もかも兄貴の真似をしようとしたんだ。けれど兄貴は勝負が際どくなると、さっさと同じ土俵から降りようとする。ずるい。 「兄だってだけで上から目線で言ってくるのが本当、うざくて。物心ついた頃からそうでした。今の歳と違って、小さい頃の一歳の違いって、結構大きいじゃないですか。小学一年生になるとき、兄貴にどや顔で、鉛筆から消しゴムから筆箱からランドセルまで……全部、名前を書かれたんですよ。お前はまだ文字が書けないだろう、って。名前の……『ち』と『さ』が書き分けられてない、って。でも兄貴の書く字も、所詮小学一年生だから上手くなくて。よごされたみたいで、嫌でしようがなかった。けれども母は、『面倒見のいいお兄ちゃんね』って目で兄のことを見ていた。俺は兄貴がずっと隠してきた、きたなくてずるいところをいっぱい知っているんです」  俺だけが。  世界中の誰よりも一番、兄貴を知っている。  兄貴にとって二知翔は地雷。なのにそれに気づかないでいる。馬鹿兄貴。 「じゃあ今度は君が、お兄ちゃんに名前を書いてあげるといいよ」 「え……?」  日本語、は、通じているはずなのに、意味が分からなかった。それなのに彼は、意味が分からない二知翔の方がおかしい、というような顔をしている。にこにこと、今までと変わらない微笑み。でも、何かおかしい。本当に今まで彼と、抱き合っていたんだろうか。知らないひとみたいだ。いや、知らないひと、には違いないのだけれど、今こうやって面と向かい合っているにも関わらず、会ったことがない、と答えてしまいそうになっている。目の前にいるのに、ふれることができないような奇妙な感覚。結果、「名前を書いて……?」と鸚鵡返しするしかできなかった。  裸のまま立ち上がると彼はおもむろに、ソファに掛けていたジャケットの胸ポケットから、一本のペンを取り出した。  何の変哲もない黒いサインペン……のように、見える。軸からキャップまで、すべて真っ黒。差し出されたのにつられて、受け取っていた。どこにでもありそうなペン。けれどまったく同じものは今まで見たことがなかった。よく見るものに比べて、少しだけ重いような気もする。高級な……外国製とか、だったりするのだろうか。彼は大人だから、何気ない文具ひとつにもこだわりがあったりするのだろうか。 「それで名前を書くと、書いたものが自分のものになる」 「え……」 「……って、いう噂」 「噂……」 「いつの時代でもなくならないよね、そういうオカルト的な話。若い子の間で流行ってるらしいけど。君は知らない? 女の子の間だけなのかもね」 「はあ……」  返そうとしたけど、すっ、と押し戻されてしまった。 「まああくまでも噂だけど。お守りだと思って。そういう支えがひとつあるだけでも、心持ちが変わってくるでしょ」

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