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第9話
その晩、兄貴が寝たのを見計らって、二段ベッドの梯子を下りる。
ぎし、ぎし、と軋む音が、いつもより大きく感じられる。ペンは肌身離さず持っていた。寝ている兄貴を見下ろしながら、王子に短剣を構えた人魚姫の心境はこんなだったのだろうか、と、ふと思う。自分が泡にならないために。
……泡にしたくないものは、一体何だ?
注射をするときのように腕を投げ出させ、パジャマの袖をまくりあげる。あらわになった腕に、ペン先を向ける。肌にふれた瞬間、ナイフのように切り裂いてしまいそうな恐怖に竦む。けれど立ち止まってはいられない。
名前を、書く。
名前。
にちか、と。
あのとき「間違えている」と、散々からかわれたひらがなで。
けれど……
けれどどれだけ力を入れても、インクが出ない。いたずらに肌を撫でるだけだ。
何なんだよっ、やっぱりインチキだったか。ていうか、インクがなくなったペンを押しつけられただけだったんじゃねーか。
苛立ち紛れにペンを放り投げたとき……
暗闇の中で、兄貴と目が合った。
「無駄だよ」
口の中がカラカラになった。
「もう使い切ってしまったから」
「な、にを言って……」
起き上がった兄貴がペンを拾い上げ、そして再び二知翔の手に握らせてきた。
「このペンを持っている間は、書いた文字が見えるみたいなんだ」
そして部屋の明かりをつけると、おもむろに二知翔のシャツをまくりあげてきた。
「何すっ……」
しかし促されるまま視線を下にやると……
腹の部分に、黒々と大きな染みがあった。
「何なんだ、これ……」
ごしごしと手でこすってみる。しかし取れる気配はない。
「何なんだよっ!」
相変わらず鉄仮面のような……いや、心なしか少し強張ったような兄貴の表情と、黒い染みとを交互に見て……そして、気づいた。
ただの染み……というより、黒いペンでぐしゃぐしゃとやったみたいなそれ。その下に、何か文字のようなものが見える。
「た、か、な、し、か……」
高梨一臣。
兄貴の名前だ。
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