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第5話 母からの逃亡
もう一度唇を重ねたとき、母の姿がちらついた。心を壊し、安定剤を欠かせない存在。
「そうだ。俺、家に戻って通帳とかパソコンとか、いるもん取ってくる。司はどうする?」
「俺はやめておく。ごめんな」
「……」
罵りの言葉が口から出そうになったが、自分も今日から司と同じ道を歩むのだ。司を責める資格など、今の自分にはない。
「すぐに戻るから、駅で待ってて」
踵を返し、自宅へ足を向ける。
(母さん)
やっと自分も、彼女から離れてもいいのだと思えた。ふたりも子供がいなくなるとどうなってしまうのか、とは思うが、これ以上自分を犠牲にしたくない。必要以上に過剰に関わってくる親よりも、司と一緒にいたい。
「ただいま。少し忘れ物があって帰ってきた」
玄関を開け、廊下に進んだあたりで母に出くわした。言った言葉は事実だから、心は痛まない。だが、やましさがあるせいで母の顔色を覗ってしまう。
「……司?」
「えっ」
「司よね? 志郎はさっき、友達の家に行くって出て行ったから。よかった、帰ってきてくれたのね……!」
母が抱きついてくる。とうにそんなふれ合いなどしなくなって数年たっているから、柔らかな体に驚いた。と同時に、やっぱり、という諦念に支配される。
(そうだ、この人は司がいなくなったからおかしくなったんだ。俺じゃなくて、司が大事だったんだ……)
気付くまいと目を逸らしていたが、こうやって自分と司を間違えられるとさすがに堪える。
「……母さん、ごめん。俺は志郎とこの家を出る。色々考えた末の結果だ。必要なものを取りにきたんだ」
「どうして? あなたたちの好きなもの、たくさん揃えているのに?」
まるで少女のようにあどけなく訊かれ、言葉に詰まる。
「ごめん、俺だって苦しい。でも、お互い幸せになるためには離れたほうがいいときだってあるんだ」
視界がぼんやりとする。涙が出てしまっているのだ。司の振りをするのは母を騙しているのかもしれない。だが、そうでもしないとこの場で号泣していただろう。
「待って。司、司……!」
抱きついてくる母を無理やり引き剥がし、二階の自室へ向かった。母の泣き声が聞こえてきて、自分がまるで極悪人のようだと思えた。
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