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第10話
「もしかすると、この世界は好みではなかったかな?」
剤は茶碗を下げると、胤に聞く。
その後に胤を襲う、広がる静寂と世界から切り離されたような感覚。
「この世界……」
どれくらい、沈黙していただろうか。
まるで昼から夕、夕から夜、夜から朝へ移り、昼へと過ぎ去ったような長い感覚もする中、胤が呟くように吐く。
すると、剤はふっと笑った。
「いや、なに。1度、死の淵を彷徨った者としてはそんなに驚くことでもないのよ」
剤は壁に背を預けると、煙管を取り出す。「一服しても?」と胤に許可をもらうので、胤は「好きにすると良い」とだけ言う。
胤から許可を得た剤は慣れた手つきで煙管に火をつけると、長い煙管を自身の指のように扱って刻み煙草から立つ煙を吸い、煙を吐き出した。
剤と最初に出会った時に巻子の届け先を書き記した時のように、その様子は実に美しく、滑らかで、何とも表現できない色気に満ちていた。
「やはり、全身を焼かれても、これだけは止められぬな」
「1度、死の淵を彷徨ってもか?」
「ああ、生きるとは時に理ではないのかも知れぬな。まぁ、話は逸れたが、分かりやすう云えばな、特別な人間を見ると、その者が纏まっている色が違って見えるのよ」
全然、分かりやすくない、と胤は思い、そのまま口にすると、剤はケタケタと笑う。
「まぁ、例えば、この世界以外で死んだ者は身体に紫の煙のようなものが見えてな。そなたの師父らには薄っすらと見える。そして、そなたは……」
「私は……?」
「この世界ではない世界から来られた者。銀に月光を塗(まぶ)したような煙がそなたには見える」
「この世界?」
「ああ、先程、我はそなたを知らぬと言ったが、そなたは別の世界の我を知っておって、まだこの世界の我には会ったことはなかったのだな」
剤はまた煙管を咥えると、刻み煙草の煙を吸う。
つまり、胤は師父らの死と剤と出会ったことがなかったことになったのではなく、最初からそれらが存在しない世界に来てしまったのだ。
師父らの死と剤と出会ったことがある世界にいた剤の丸薬の力で。
「思うところはあるが、貴殿の云いたいことは分かった。だが、誠にそのようなことが……」
俄かには信じられないという面持ちで、胤は言うと、剤は「信じられなくとも仕方ない」と煙と息と言葉を吐いた。
話はお終いだ、と言うように、剤は胤を見送ろうと、庵から店の方へ出る戸の方へと向かう。
ただ、胤としては納得がいく訳はなかった。
「どんな呪(まじな)いかは分からないが、貴殿のお陰で父上の死も母上の死もなかったことになった。私としてはこれ以上の幸福と感謝はない。故に……」
故に、胤は剤が望むことをしたい、と申し出た。
それは勿論、感謝でもあり、また胤の義理堅さでもあった。
「金でも良いし、異国の巻子を100本、とかでも良い。貴殿の望むこと、願うこと、何でもしてみせよう」
剤が珍しく口を開かないので、いつになく、胤は色々と口にして、何とか、剤の望みを聞いた。
長い長い静寂に、世界から切り離されたような感覚。
それから、再び、沈黙が破られたかと思ったら、剤が望みとして口にしたのは意外なものだった。
「だったら、夜伽の相手でもしてもらおうか」
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