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第6話 春の気配

 小さなビルの三階に、波多野の事務所がある。東向きの窓からは、遠くに東京駅の屋根が見える。出勤したばかりの波多野は、いつものようにデスクに鞄を置くと、コート掛けにトレンチコートと帽子を掛けるとその窓を開けた。すると途端に、通りを走る車や工事の音が賑やかに聞こえてくる。そのうちに、排ガス臭い空気も登ってくるだろう。 波多野は、夜と朝の空気が入れ替わったなと判断すると、すぐに窓を閉めた。 振り返ったると、デスクの上には真っ白い封筒が置かれている。今朝ポストで見つけて持ってきたものだ。 封筒の裏には、自分が別荘の管理人として雇った男の名前がある。 確か、地元で雇った男と二人で別荘を整えてくれているはずだが、何かあったろうか。波多野は、細い鋏で封を切った。 中を開くと、便箋にびっしりと几帳面な文字が並んでいる。 これは流し読みにはできないなと、椅子に深く腰掛けなおした。 「ご相談したいことがございます」 そう書かれた手紙には、驚くほど沢山の相談事が列挙されている。 何事かと思ったが、読み進めるうちに合点がいった。確かに、どれもの家の持ち主が判断する必要のある事柄ばかりだ。 居間のテーブル、椅子、絨毯、カーテン、飾り棚。電気、ガス、水道、垣根の修繕。寝室の造作に庭の石。妻と呼べる人がいれば、任せっきりにしてしまう事もできたろう。あいにく、波多野にそういう人はいないし、今後も現れない。 話し合う時のためにと、手帳に相談事を書き写すと、数ページに及んだ。 確かに、一つ一つは些末なことだ。しかし、家主である自分が決めなければ、表札一つ掲げられない。 これは、早めに現地に足を運ばなければならないだろう。 もう一度封筒の宛名書きを見つめて顎をなでると、すぐに予定を確認しはじめた。 「なるべく早くとすると」と予定に目星をつけたところで、電話が鳴った。 波多野は、ある予感を持って電話に出た。すると、果たして電話口の向こうから、津田の声が聞こえてきた。 「よう。廣沢からの手紙は届いてるか?」 「ああ、ちょうど読んでいたところだ。早くそちらに顔を出したほうがいいらしいな」 「そうなんだ。やつら、律儀にあんたを待ってんだ。都合はどうだ」 「来週の金曜日の午後からなら、そちらに行ける。別荘に、寝泊まりはできるのか?」 「どうだろうなぁ。廣沢は、ご主人様のお部屋は空っぽですって言ってたぞ。俺んとこに来るか」 「悪いが、今回もそうさせてもらおう。こちらからも、電報を打っておく。お前からも伝えて、彼らを安心させてやってくれ」 「おう。なぁ……」 唐突な気遣わし気な空気が、津田の声をかすかに甘くする。 「なんだ?」 「あんた、本当にあの家に住むのか?こっちに、来るのか?」 少し探るような声に、波多野は努めて明るく答える。 「ああ。仕事の合間に、休息も必要だろう。 不熱心な古美術屋とは言え、商売の邪魔はしないさ」 「そんな心配はしてねぇよ。なら、長い休暇をとりに来るってところか。俺はいつでも暇だから、観光地巡りにも付き合ってやれるぜ」 「期待しないでおくさ。ああ、来週の晩、どこか旨いものを食わせてくれる店を見繕っておいてくれないか」 「わかった」 久しぶりの友人との会話は、こうして終わった。  受話器を置いた波多野は、耳元で聞こえた津田の声をゆっくりと反芻する。すると、遠くから懐かしい声が蘇ってきた。 「おいっ!……死ぬなっ」 徴兵で赴いた戦地で、半死半生の自分を助けてくれたのはあの声だ。何度も諦めそうになった自分を励ましてくれたのは、あの力強い手だ。 なんとか生きて日本に帰ってきてからも、波多野の耳に心に、津田の影が色濃く残る。その影は、決して波多野を脅かすものではなく、日々を慰め時に励ますものとなっていた。 だから、津田のいる辛夷沢に家を買った。 手帳に予定を書き込みながら、ひとりでに口元が自嘲気味に緩む。 困らせるだろうか、嫌がられやしないだろうか。それを恐れるにも拘らず、ひどく喜んでいる自分を恥ずかしくも思う。 距離を間違えないようにと自分を戒めながらも、波多野の心はふわりと宙に浮くほど軽かった。 ☆  受話器を置いて、津田は大きく溜息をつく。そして、盛大にニコチンを喫って煙を吐く。 電話で、波多野が来る日程は確認できたけれど、二人の関わりについてどう説明するかについては、聞けなかった。 出会いについて話そうとすれば、思い出させたくない記憶ばかりがよみがえる。  二人が出会った場所は、戦地だった。 職業軍人だった津田は、たたき上げの少尉として泥にまみれていた。波多野は、徴兵だ。学があってそろばんが得意な奴だと聞いていたが、出兵前は商社勤めだったと後で知った。 後方に配属された直後から、波多野はいつも上官に殴られていた。なまじ整った顔と大学出という点が、反感を買っていたらしい。 津田も、それを知ってはいたが、しばらく見て見ぬふりをしていた。いずれ標的は変わるだろうと思っていたし、現実問題として自分が生きるのに精いっぱいだった。 しかしその状況は、ささいなきっかけで変わった。 その時、津田はある作戦で前線に三日居続け、残った兵士を掻き集めて帰って来たばかりだった。戦況を報告しようと、後方の作戦司令本部代わりの建物に入ると、やけにシンとしている。妙だなと思い、靴音をひそめるようにして歩くと、遠くから大きな靴音と細い悲鳴が聞こえた。 音のする方に向かうと、誰かに引きずられていく波多野が、曲がり角の向こうに消えていくところだった。 津田は、何故かそれを見た瞬間、床を蹴って駆け出していた。腹の奥が、かっと火がついたように燃え盛ったことを覚えている。 怒鳴り声のする部屋のドアノブを掴むと、鍵もかかっていない。勢いよく開け放てば、床にうずくまる波多野のやせた背中と、それを踏みつける軍靴が見えた。 気づけば、津田は上官の肩を掴んで力任せに殴っていた。殴って、殴って、殴っていると、突然足に重みを感じた。 手を止めて見下ろすと、波多野がすがりついていた。 引きはがそうと肩を強くつかむと、振り仰いだ目が、これ以上は駄目だと言う。 不思議と、頭に登っていた熱がすっと冷めた。 津田は、顔中血まみれにした上官と震えてへたり込んでいる副官を睥睨すると、何もいわずに波多野を抱えて部屋を出た。その後、津田が罰せられることはなく、波多野が殴られることもなくなった。 ずっと、見て見ぬふりをしてきたのに。 あの時どうして、飛び出してしまう自分を抑えられなかったのだろう。 特別親しかったわけでもない。 助けようなんて、思ったわけじゃない。 前線で戦う自分を後目に、隊舎で好きなことばかりしている上官が憎かったのかもしれない。 上手くいかなかった作戦の、八つ当たりだったのかもしれない。 そんな事ですらなくて、ついさっきまで前線にいた興奮が、暴力に向かわせただけかもしれない。 きっと、そのどれもが理由で、どれもが理由じゃない。 ただ。 ただ、ただ、嫌だった。 断じて、正義感や義侠心などではない。 こんな話。若い二人に聞かせて、何になる。 ☆  華族と称された人々が、歴史を守りつつ新しい文化を貪欲に取り込んでいた頃。一人の男が、趣味と財力を注いで美しい別荘を建てた。当時、かなり話題になったらしく、落成直後の様子を映した写真が町の記録に残っている。 その別荘も、時代の変遷に弄ばれるように流転して、今は波多野の持ち物だ。 いつでも使えるように、住込みの管理人も雇った。その管理人から届いた、相談事と言う名の苦情がしたためられた手紙を胸に、波多野は列車に乗っていた。 窓から見える景色は、都会から山のものへと流れていく。ぎっしりと並んだ家々は畑になり田んぼになり、山の斜面が見えてくる。それにつれて、木々の様子も変わっていく。葉桜と八重の桜が混ざっていたと思ったら、満開の梅林を通り過ぎて冬枯れの木々が寒々と立ち並び始める。まるで、季節を遡るようだ。  波多野が辛夷沢に到着したのは、4月のはじめ。東京なら、とっくに桜が散っている頃なのに、ここではやっと春が始まったばかりだ。 近くに見える山の頂には、まだ雪がしっかり残っている。それでも、よく見れば若葉や花の芽が小さく顔をだし、気の早い小さな花が道端で咲き始める。 まだ寒かろうと厚手のコートを着てきた波多野は、坂を上っている途中で脱ぐはめになった。 大通りをまっすぐのぼり、右に曲がれば別荘だが、左に曲がる。銀屋のガラス戸を引いて店に足を踏み入れると、店の奥から声がした。 「よう。来たか」 波多野は、ほっと小さく息を吐くと、帽子をとって挨拶を送った。 「すぐ行けるか?あいつらも、首を長くして待ってる」 手荷物を受け取りながら、津田は波多野の様子を伺う。すると、波多野は割合いにしっかりした声で答えた。 「ああ。決めなければならないことも沢山ある。ゆっくりするなら、向こうに行ってからだ」 「そうだな。あっちなら、廣沢が上手い茶の一つも出してくれる」 上衣を羽織って出てきた津田と波多野は、連れ立って店を出た。 「あの別荘を買ってから、初めてだな」 津田は、歩きながら煙草をくわえて、マッチをする。大通りを流れる風がその火を揺らめかすと、波多野は火を守るように手をかざした その火越しに目が合うと、津田は眉の端をぴくりと上げた。波多野も眉一つ動かさずに、煙草に火が移ったと見るやすぐに歩き始める。 「なぁ、あんた、何でこの町の別荘を買ったんだよ」 「ん?おかしいか?」 「おかしかねぇが、物好きだろう。辛夷沢は、別荘地としては有名だが東京よりずっと不便だし、冬は東北なみに寒いぞ」 「お前が、いい処だって言ったんだぞ」 「俺は、寒い土地には慣れてるからな。まぁ、気候のいい時期にのんびりしに来たらいい。お誂え向きの絵でも、見繕っておく」 任せておけと波多野の背中を軽く叩くと、控えめな笑顔が返ってきた。 「助かる。お前は、ずっとあの店をやるんだろう?郷里に戻ったりは」 「しねぇな。二親はもういねぇし、弟や妹達はそれぞれ元気にやってる。あいつらの生活に、元軍人は似合わねぇ」 「そうか。なら、俺がたまに会いに来ても、それほど迷惑にもならんか」 「迷惑なもんか。ただ、なぁ……」 「なんだ?」 言葉を濁した津田の様子を、波多野は横眼で伺う。 「いや。ただ、昔のことを、義理に思う必要はねぇってことさ」 「そんな事は思っちゃいないさ」 「そうか。ならいいんだ」 銀屋から別荘まで、歩いたところでそう遠くはない。直に、教会の横を抜けて、別荘の正門の前についた。  津田は、鉄製の門をぎいと押し開く。 促されて歩を進めた波多野の目の前には、玄関までゆるくカーブした路が伸びている。その先に、玄関の破風とアーチ型の車寄せが見える。 石でできたアーチには、蔦がぐるりと彫られていた。 波多野は、そのアーチを見上げ蔦のレリーフをそっと指でなぞると、満足気に小さく頷いた。 迎える玄関は、何の装飾もない大きな木の扉だ。両開きの扉には、真鍮のドアノブと揃いのドアノッカーがついている。建築当時の流行だったのだろう。 ここも、津田は訪いも告げずに勝手に開けて入っていく。波多野は、その後に続いた。 重たい玄関扉の向こうには、広い玄関がある。西洋かぶれの極みのような作りだが、やはり靴はぬぐ。作り付けの靴箱は、下段には背の高いブーツや長靴、目の高さに日常の靴を置くように棚の高さが調節されている。そこでスリッパにはきかえると、目の前には、廊下が真っ直ぐ奥まで伸びている。二階に上る階段もある。 しかし、最初に入るべきは、左手の扉の向こうだ。そこには、メインの居間がある。 部屋を支えるまっすぐな柱に節はなく、てらりと光っている。天井を振り仰げば、華やかなシャンデリアが下がる向こうに、麻の葉模様の欄間が見えた。 庭に面した窓の木枠には、長方形のガラスが整然とめ込まれている。アールデコを模したのか、ところどころに色ガラスが使われて、廊下に美しい影を落としていた。 全体に、直線で形作られたスッキリした居間の中央には、装飾のたっぷり施された大きなテーブルが鎮座している。前の持ち主、早川が買ったものだ。ガラスの飾り棚と揃いのようだが、猫足がやけに重々しい。 これは、どうしたものかと波多野が思案していると、津田が窓を開けて首をのばしている。 「どうした?」 「いねぇなと思ったら、あいつら庭だ。呼んでくるから、好きに見ておけ」 そう言うなり歩き出した背中に、波多野は手を軽く振った。 「見ておけと言われてもなぁ」 そう独り言ちて上衣と帽子を脱ぐと、椅子の背にひっかけた。 先ほど津田が立っていた廊下は、家の南側に面している。どうやら、玄関から伸びた廊下が、ここまでつながっているようだ。その廊下を、庭を右に見ながら進むと左に小さな和室が現れる。 台所と居間を繋ぐその場所は、時に宴会料理の一時置き場になり、使用人たちの食事の場所になり、繕いや下仕事の場所になったのやもしれない。 和室を抜けて台所に入ると、かたりと引き戸が開く音がした。 「波多野様!」 呼ばれて振り返ると、知った顔だ。白いシャツに黒のVネックのセーター黒いズボン姿にも見覚えがある。 「やぁ、久しぶりだね。廣沢君。遅くなってすまなかった」 穏やかに挨拶をすると、管理人はしゃきっと背筋を伸ばして深く一礼した。 「ご到着に気づかず、申し訳ありませんでした。ただいま、お茶の支度をいたします」 「ありがとう。水野君は?」 「すぐに参ります。津田様と何か話をしておりましたので、終わり次第かと」 「わかったよ。紅茶はあるかい?」 「はい」 打てば響くと言わんばかりのスピードで、廣沢は、未開封の紅茶の缶を取り出した。 波多野は、小さく頷くと4人分のお茶を用意するように伝えて、居間に戻った。 ☆  居間に戻った波多野は、仰々しい椅子に腰かけて待つことにした。手帳を広げて気が付いた事を書きつけていると、程なくして廣沢が盆を持って現れた。 四角い木の盆の上には、白磁に紺のラインがきりっと一本入ったポットと揃いのカップが人数分、それから布巾が乗っている。 「ちゃんと人数分持ってきたね」 にやりと笑って見せると、廣沢は恐縮したように神妙な顔をする。 「はい。持っては参りましたが、私共も、一緒にお茶をいただくようにということでしょうか?」 「もちろんさ。話をする事は沢山あるし、君たちのことも聞きたいしね。津田から、聞いているだろう?」 「はい。伺っております。津田様は、もうご主人様なんていう時代じゃないとおっしゃっておいででしたが、私には実感がわきません」 「ゆっくりでいいさ。私も人を使うのにはまだ慣れていない。雇主らしくないと思うが、仲良くやろうじゃないか。……戻って来たようだ」 振り返って窓の外を見る視線につられて廣沢も目をあげると、庭を走っている水野と津田が見えた。 「楽しそうだ」 「え?」 「いや、津田が楽しそうだと思ってね。彼は、あまり愛想のいい方じゃないが、若いものや自分より下の者の面倒をよく見る。そういう事が好きなんだな。きっと」 「わかる気がいたします」 廣沢は、ポットをゆっくりと円を描くように回してから、カップにお茶を注ぐ。高い位置から注がれる湯からは、湯気と紅茶の香りが一気に広がる。 跳ねた水しぶきを拭きとって、熱い紅茶と濡れ布巾が波多野の目の前に差し出された。 「ありがとう」 暖かい布巾で手指を拭くと、旅の汚れが落ちるようでさっぱりとする。 そして、紅茶の香りとかすかな渋みが、疲れた頭をすっきりとさせてくれた。 「波多野様」 慎重に声をかける廣沢に、波多野はなんだい?と目をあげて問うた。 「手紙を読んでくださったそうですね。津田様から伺いました。ありがとうございます」 そういって、また丁寧に頭を下げる。 波多野は、苦笑を漏らす。確かに、この調子では上下関係はないのだと言っても、そう簡単には実感してもらえなさそうだ。 「沢山書いてくれたおかげで、私が何をしたらいいのか、具体的に考えることができたよ」 大丈夫だよと笑顔を見せると、硬く強張っていた廣沢の顔が、ほっと緩む。その顔を見たら、もう少し安心させてやりたくなった。 「明後日の朝までいるつもりだ。色々相談しながら決めていきたい。家の中の事は君だろうけど、庭は水野君に……」 名前を出したところで、バタバタと足音が聞こえた。 波多野と廣沢は、目を合わせてくすりと笑った。 「おう、水野を連れてきたぞ」 津田は、大股で部屋をまたいで波多野の隣にどかりと座った。水野は、波多野の前に立つと肩を小さくして、頭を下げた。 「水野政文です。よろしくお願いいたします!」 よろしくと波多野が答えると、水野は勢いよく頭を上げたけれど、そのまま直立不動で動かない。 「おい。廣沢。水野をそこの椅子に座らせろ。折角の茶が冷める」 津田のぞんざいな物言いにも、廣沢は動じることはない。さっさと水野を席につかせて、音高く紅茶を注ぐと自分も席に着いた。 その様子を見ていた波多野の胸のうちに、少々の驚きと感心が入り混じった。 短い間に、廣沢と水野そして津田の関係は良好に育っているように見える。それが、とても嬉しい。 これならば、きっとこの別荘を長く維持していけるだろうと信じられた。 手にしていたカップを皿の上に下ろすと、波多野は改めて挨拶をした。 「波多野修二だ。個人で貿易商を営んでいる。これから、よろしく頼むよ」 きっぱりと、でも穏やかな声音で挨拶をする主人に、若い管理人達は誇らしいような眩しいような視線を向ける。 ひっそりと静まりかえっていた古い別荘に、春の訪れと共に新しい何かが始まる気配が満ちていた。

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