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第7話 苔と落葉松

 念願の別荘を買い、住込みの管理人まで雇った。そのくせ、仕事にかまけてなかなか足を向けられていない。管理人たちも首を長くして待っていると友人に急き立てられて、波多野はようやく別荘にたどり着いた。 しっかりした作りとはいえ、一年間放りっぱなしだった建物だ。敷地全体も室内も雑然としているだろうと思っていたが、思ったほどでもない。門から玄関まで、よく掃き清めてあったし、室内の空気も清々しい。隅々までよく掃除をしておいてくれたらしい。波多野は、よい買い物をしたと、多いに満足した。  こうして再び息を吹き返した別荘で、波多野の到来を待ち構えていたのが、廣沢だ。 幅広い内容について順序立てて質問し、波多野の決定や意見を細かにノートに書きつけた。色や質感についての好みも、把握できた。 これからは、このノートを参考して別荘を管理していく。当面、家具や絨毯、カーテンなどを、津田に手伝ってもらいながら買い揃えておくことになった。 最後に、廣沢は、おずおずとまた違うノートを差し出した。開くと、そこには今までの収支が記録されていた。家計簿というわけだ。 数字を追っていくと、やや記載に不明瞭な点があった。波多野は、ペンを片手にあれこれと教えた。その説明を真剣に聞き入る様子には、二度と間違えないという気迫が感じられた。波多野は、また一つ満足した。  家計簿についての説明を終えると、廣沢から一つお願いがありますと、神妙な顔つきで告白された。何かと思えば、郵便局で口座を作りたいというのだ。大きな現金を扱いつけておらず、手元に置きっぱなしなのも不用心だという。波多野は、予想外のことに少し驚いた。 「早川では……そうか。金周りは全部家令が仕切っていたのか」 「はい。使いを頼まれる時も、必要な分をお預かりするだけでしたので。自分の手の届くところに、大きなお金は置いてはありませんでした」 「そういう所は、まるで子供のままなのだな。これからは、廣沢君と水野君の二人でお金の管理もしていかなきゃならない。わかったよ。口座は作っておく。私からの送金も、届いたらすぐに口座に入金するようにすれば、安心だろう?出し入れのたびに手間だから、そっくり入れてしまうのは勧めないがね」 にこやかに笑った波多野は、辛夷沢に居る間に口座を作り、廣沢に真新しい預金通帳と印鑑を手渡した。 通帳を受け取った廣沢は、ひどく安心したといった面持ちだったが、帳面を開いた途端に顔色を悪くした。 どうしたのかと問うと、責任がどうの倹約がどうのとぶつぶつ言っている。 波多野は、少し大げさなくらいに笑って見せた。 そして、廣沢にこう言った。 ─── お金に誠実であるということは、良いことだ。怯える必要はないけれど、お金の出入りに清潔であろうとすることは、君の美点だ。 そうやって、よくよく褒めた。 廣沢は、嬉しそうに照れくさそうに、笑っていた。  一方水野は、そんな廣沢とは正反対だ。 必要なものは買う。使えるものは使う。無駄遣いはしない。やり方がはっきりしているし、お金を使うことに悪びれるところがない。 職人修行をしてきたせいか、仕事の出来栄えや期限についての責任感は強い。その分、道具を揃えることに躊躇いがない。 波多野は、そんな水野と津田も巻き込んで、庭の相談もした。 水野曰く、道路沿いの木をもう少し背高く育てると良いらしい。外からの目隠しと、冬の風除けになるそうだ。南に面した庭に花の咲く木を一本植えたらどうだと言ったのは、津田だった。確かに、いつでも好きな時に、自由に静かに花を眺めることができるなら、それは別荘に来る楽しみにもなるだろう。 波多野は、「春に咲く花を」と、木選びを水野にまかせた。 それから、東側の敷地境の落葉松の枝打ちや打ち遣らかされたままの花壇の始末など、大きな方向性だけを示して、こちらも水野に任せることにした。 こちらは、最後に波多野から要望を出した。庭に苔を広く生やすことは可能か?というのだ。 ここまで、はい、はいと返事をしながら神妙に話を聞いていた水野が、困ったなと眉間に皺を寄せた。 「どうした?苔は、まずいかな。この辺りでは珍しくないし、芝生のように刈る手間もかからないと思ったんだが」 「いえ。まずくはない、です。ただ、苔は手間と時間がかかります。苔の庭にしようとお思いでしたら、何年もかかると思ってください。それから、作業の手がいりますので、庭全体を凝った作りにするとなると、俺一人じゃ足りません」 「足りない、か……例えば、どの程度足りないんだい?」 「今お話いただいた程度なら、日々の手入れはできます。ただ、季節ごとの枝打ちの時には、以前の師匠のところから数人手伝いが必要になると思います。それだけじゃなくて、例えば、庭に池を作るとか、小川を流すとか、鹿威しを置くとか、石を置くとか……です」 「ああ、なるほど。それだと、常に二人か三人必要になるというんだね?」 そうだと、水野は大きく頷いた。 「君の言うことはよくわかったよ。でも、苔を諦めるのも残念だ。庭のどこかで小さく始めてみてくれないか。急がなくていい。ここに来るたびにどのくらい広がっているか、その変化を楽しむことにする。それから、君と廣沢君の二人以外に、ここに住込みで働いてもらうつもりはないんだ。臨時でということなら、君の意見を尊重するがね。池も川も欲しがったりしない。約束するよ」 これでいいだろう?と波多野がいたずらっぽく首を小さく傾げる。水野は、満足気に一つ頷くと、深く頭を下げた。 ☆  やるべき事を終えて、波多野は明日の朝には東京に戻る。 津田の家の奥、掘りごたつの天板には波多野の手土産の洋酒と、つまみの漬物が乗っている。小さな火鉢の上では、小鍋から湯気が立ち上っている。後は寝るばかりとなった二人は、家着に着替えてこたつで暖をとりながら、二日間で決めたあれこれを話題にしていた。 「苔の庭を造りたいとはな。別荘らしくなりそうだな」 「水野君には、無理を言ってしまったな」 「いいんだよ。少し難しい仕事をしなきゃ、上達しないだろう。落葉松の枝打ちには職人を呼ぶと言っていたが、落ち葉掻きもなかなか大変だろう」 「落葉松は針葉樹だろう?」 「ああ。でも、あれは葉が紅葉して落ちるんだ。紅葉っつっても、黄色くなる。太陽の日が当たると金色に光ってなかなかきれいなもんだ」 「それは、大変そうだな」 「ここいらは、どこに行っても落葉松が植えてあるもんだ。気にする事はない。これからあの庭では、春には花が咲いて秋には落葉松が金色に輝くってわけだ」 「なるほど。昔から物書きがよく別荘を作るわけだ」 贅沢な話しだと、二人はにやりと笑いながら、またグラスを重ねる。 「ところで、廣沢のほうはどうだった?」 津田は、先に自分が出会った若い二人が雇い主の目にどう映ったか、それなりに気にしていた。 「一生懸命。それに尽きるかな。俺がもう少し良い雇い主だといいのかもしれないが、あの子も自立していかないといけない」 「だな。ご主人様が何もかも決めるご時世じゃねぇからな。それにしても」 「ん?」 津田は、躊躇うように手にした小さなグラスを見つめる。それから、ぐいと洋酒を飲んだ。 「あいつら、若いなと思ってな」 「ああ。生きて元気に育って。ありがたいことだ」 波多野は、空いたグラスに酒を注ぐ。暗い照明の下でも、金茶色に輝く酒はイギリスから輸入した舶来ものだ。 「少し、古い話をしてもいいか?」 「ん?……。ああ、俺が別荘を買ってからずっと、気にしているんだったな」 問いかけた口調に比べて、波多野の声は明るい。まるで、昔のことを気にしているのは、津田ばかりのようだ。 しかも、許可を取ったにも関わらず、津田はためらってなかなか口を開かない。波多野は、自分からさっさと切り出してしまうことにした。 「あれから、もう10年以上たつ。ずっと気にして、でもずっと口にしないでいてくれた。な、津田少尉」 「古い名で呼ぶなよ」 「その方が、気分が出るだろう?俺を助けてくれた時、お前は細かいことは聞かなかった。だが、俺が何をさせられそうになっていたかは、気づいていた」 「……」 じろりとグラス越しに波多野をにらむが、落ち着いた様子は変わらない。 津田は、小さく溜息を一つつくと、注いでもらったばかりの酒をあおった。 「まぁな。あの様子を見りゃ何となくわかる。あいつらのやりそうな事だ。でも、あの時ゃ未遂ですんだろう」 「あの時は、な。済まない時もあった」 「それを知ってるのは、俺だけだ。俺さえいなきゃ、なかった事にできる。なのに、こんな土地に別荘なんて買っちまって。あんた、俺の傍にいて辛くないのかよ」 一体何を考えてるんだと津田は訴える。それでも、波多野は揺るがない。 「そうだな。確かに、対外的にはなかった事にできる。でも、だからって忘れられるわけじゃない」 淡々と事実を告げる姿に、津田は言葉を詰まらせる。ついグラスをぎゅっと握ったら、その手の甲を、ぽんと軽く叩かれた。 「波多野……」 「どういうわけか、お前さんは俺を助けた。そして、その後何も要求してこなかった。何も聞かなかった。侮蔑もしなければ、安っぽい同情もしなかった。ただそれだけで、俺の人生は決まってしまったのさ」 「人生……」 津田は、呆然と波多野を見つめた。 彼は、口元に笑みさえ浮かべて静かに座って酒を呑んでいる。でも、そこにはふわりと情念のようなものが燃えている。俺を置いて行かないでくれと、自分に手を伸ばしている。 負けたなぁと思った。 何にと聞かれれば、波多野の思いにというべきだろうか。津田は、観念することにした。 「なぁ」 先ほどまでの硬い調子を崩して、津田は、甘く低く語り掛ける。突然なんだと、波多野は目を大きく見開いた。 「俺は、この先あんたの人生の何になるんだ?」 すると、波多野は少し怯んだように瞬きを繰り返しながらも、言葉を選ぶ。 「何って……。難しいなぁ。俺が女なら、押しかけ女房にでもなりたいところだが、それは困るだろう?無二の親友くらいのつもりで……」 「困らねぇっつったら、俺の女房、いや、男同士だから相方か。相方になってもいいのか?」 ずばりと聞いてみた。波多野は、間髪いれずに「もちろん」と答えた。 津田は、手にしたグラスを置いた。 「よく聞けよ?友達じゃねぇ。芸者と間夫みたいな、そういうやつだ。惚れたはれたの仲だ」 「わかっている」 ああ、酔っているなと、津田は思う。思いながらも手を伸ばして、向かいに座る波多野の手を掴んだ。 すると、その手に目を落とした波多野が、小さく笑った。 「なんだよ」 「津田の手なら、怖くないんだ」 「怖くない?何なら、怖いんだよ」 「お前以外の全部さ。男も女も。大人も子どもも」 「そんな……」 「もし、その気があるなら、相方と思ってほしい。若くないし、新品でもなくて申し訳ないが」 津田は、波多野の手を掴んだままこたつを抜け出した。そのはずみで、波多野の手が引かれて、小さなグラスがころんと転がった。 「俺なら怖くない。本当だな?」 「ああ」 片手を握ったまま、津田は波多野の背を抱き寄せた。 その身幅や背中の厚みに、男だなと思う。思いながらも、ふと胸の奥が熱くなる。 「あんた、俺とやれんのかい?」 「わからない。でも、他の誰ともできない事だ。お前が欲しがらないなら、捨て置いてくれ」 「そんな勿体ないことは、できねぇな。ゆっくりでいい。俺のもんになりなよ」 耳元でそう呟いて、皮膚の薄そうな耳の縁を唇で撫でる。 波多野は、ぴりりと走る刺激に首をすくめて、思わずぎゅっと目を瞑る。そんな様子もお構いなしに、津田は甘やかに言葉を重ねる。 「あんなにやせてたのになぁ。あんたは知らないかもしれないけど、あんた美人なんだぜ」 思わぬ口説き文句に、波多野はかっと顔や首を熱くして俯いてしまう。その様が妙に愛らしくて、津田は波多野の顎をくいと持ち上げて、額と額をこつんとあてた。 「なんだよ。可愛いとこもあるじゃねぇか。今晩は、何もしやしねぇよ。酔っぱらったまま、ゆっくり寝よう。な?」 甘い誘いに押し流されるように、波多野は小さく頷いた。 ─── どっかでこうなることを、俺はずっと待ってたのかもしれねぇな。 津田は、しばらくの間、抱き寄せた背中を宥めるように優しく叩いていた。  戦争が終わって日本に戻ってきてから、ずっと触らないできた過去の傷。 津田は、その傷がいつか癒えると思っていたが、そう容易いものではなかったらしい。それなら、治らない傷ごと包んでやればいい。もっと早くそうしておけばよかったとも、今だから良かったのだとも思いつつ、津田は波多野と布団を並べて眠った。 ☆    その頃別荘では、管理人たちはそれぞれの湯飲みを片手に、ストーブの前でぽつぽつと言葉を交わしていた。 これからの展望が開けて、廣沢は特に機嫌が良い。 「楽しそう……、嬉しそうですね?」 「そうかい?ああ、そうかもしれないね。波多野様が来てくださって、色々決まっただろう?ぴりっと気が引き締まったね」 水野は、その様子に素直に感心し、良かったとも思う。振り返って自分に課された仕事を思うと、素直には喜べない。 「庭は、一人ではやっぱり難しいかい?私は、庭作りについては何も知らなくて申し訳ないんだが」 「人数は、必要な時だけ頼めばいいですから、そこは大丈夫だと思います。それより、花と木を選んで、苔の相談をしてこないと」 「ああ。苔は、誰に?」 「やっぱり前の親方です。一度師匠と決めて弟子入りしましたから」 「そうだね。花壇の花と木は?」 「それも相談なんですが、相談する前に俺がもう少し種類や育て方を知らないと、相談もできないんです」 「なるほど……あ!」 突然、廣沢が何かに気づいたと声をあげた。 「忘れてたよ!君と本を選ぶって話。その、花についての図鑑とか育て方とか、そういう本はないのかい?」 「種苗屋の扱い品一覧くらいしか、見た事はないです」 「ああ、そうか。ここらには大きな本屋がないからねぇ。取り寄せるにしても、目録もないんじゃ頼みようがない」 「それも合わせて、親方に聞いてみます」 「それがよさそうだね。すまないね、あまり役に立たなくて」 廣沢が、肩を落として小さく頭を下げる。それを見て、水野は慌てて手を左右にふる。 「いやっいやいや、そんな。頭下げたりしないでください。話を聞いてもらって助かりました。ああ、それと……」 勢いのまま口に出すのは憚られたのか、水野は少し言葉をためらう。廣沢は、上目遣いになんだい?と先を促した。 「や、あの、今の話とは別で、やっぱり何か本を見繕ってもらえないかなと」 「ああ」 廣沢は、そうだねとにっこり笑った。その笑顔は、形良くと作られたものではなく、優しさが目じりに滲んでいる。 「どんな本が気に入るか。楽しみだ。今度、時間を作って行ってみよう。汽車で少し山を下って大きな町に行ってみるのもいいかもしれない」 「はい。あ、それと、夏の間だけ大通りに本屋が開きます。別荘客向けらしくて、入ってみたことはないんですけど」 「そこなら、珍しいものもあるかもしれない。夏になったら行ってみよう。この先の予定や計画があるって、楽しい。ね?」 廣沢は、まっすぐに水野を見つめて、少しはしゃぐように笑っている。水野は、その笑顔が嬉しくて、大きく頷いて見せた。 それに満足したのか、廣沢は湯飲みの茶をぐいと飲み干して立ち上がる。釣られるように水野も立ち上がって、ストーブの火を落とした。  新しい生活が始まる興奮は、なかなか収まらないらしい。廣沢は、寝床の中でも水野に話しかけてきた。 「水野くん、私はこれからの毎日がとても楽しみだ。美しい建物に、ぴったり合う内装を施して、紳士的なご主人がお休みを楽しみにいらっしゃる。私たちは、その準備をして、滞りなく快適に過ごせるようにする。なんて、やりがいのある仕事だろう」 そう思わないかい?と大きな目をキラキラさせて見つめられて、水野は少しまごついた。 水野とて、庭作りをまかされた事は、責任重大だと思っている。まだまだ修行中だと言ったら、以前の親方に相談して構わないし、手伝ってもらうなら日当をきちんと支払うようにとも言ってもらえた。職人の仕事を、軽んずることのない波多野の人柄についても、本当にありがたいと思っている。 だからと言って、雇い主の喜びを自分の喜びとするかのような、水野と同じ気分はまだ味わえそうにない。 でも。と、思う。 もし、波多野や津田が満足する仕事をしたとして、それを廣沢がほめてくれるなら。それは、とても嬉しいだろうと思う。 自分という小さな存在を、莫迦にせずに嫌がりもせず、丁寧に向き合ってくれた。その廣沢という存在が、水野にとっては重要だ。 「廣沢さん」 「なんだい?」 ごろりと体を横にして、廣沢は水野の鼻先を見つめる。すると、水野も体を倒してまっすぐに見つめ返してくる。 「良かったら、水野君じゃなくて、政って呼んでもらえませんか?仕事仲間からは、ずっとそう呼ばれてきたので」 「そうか。なら、そう呼ばせてもらうよ。私はどうしようかなぁ」 「廣沢さんは、廣沢さんです」 「それでいいかい?」 「はい」 「なら、そうしよう。夏の庭が、どんな風になるか、とても楽しみだ。水……いや、政が作る庭が、南のガラス窓から見えるようになる。きっと波多野様も楽しみにしていらっしゃる」 「俺は、まず廣沢さんに気に入ってもらいたいです。だって、ここにずっと住んでいるのは、俺と廣沢さんでしょう?」 水野の物言いに、廣沢は少々面食らったと目を丸くして、すぐに破顔した。 「そうだね。職場を美しく。いいね。いい。楽しみだ」 心から楽しそうに、廣沢は小さく笑っている。 その笑顔が嬉しくて、何故か可愛らしい。水野は、目の前の頬に伸ばしたくなる手を、布団の中で握り込んで堪えていた。

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