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第8話 芽吹いていく

 美しい季節が、始まった。 林の木々は生き生きと枝を伸ばし、若い葉を透かしてライム色の光が降り注ぐ。足元の土は黒く、目覚めたばかりの小さな生き物たちがせっせと歩き回っている。 別荘の庭は、枯れた草々や低木がすっかり取り払われ、広々としたその場所には、新しい緑があちこちからのぞいている。 南むきのガラス窓の端近には、新しい花壇が作られ、黄色い水仙がいくつも並んでいる。 波多野の要望通りに、庭のあちこちに花壇を整備していくには時間がかかる。かと言って、今年の春に花がないのは寂しい。そう思った水野は、取り急ぎ花芽のついていた球根をいくつも用意して、庭に埋めた。幸い、その場に根付いて花は開いた。波多野がこの水仙を見ることはないけれど、廣沢がきれいだと褒めてくれたので、十分だった。他にも、いくつか四角く石で囲われている場所がある。 これから種をまいたり、球根を準備したりして、順番に花を咲かせていく予定だ。 水野は、水仙の傍に立って庭全体を見渡してみた。 すると、何か寂しい。 落葉松と低い花壇の間、ぼっかりと空間が開いている。夏に咲く蔓性の植物を棚に絡ませるようにすると、奥行きも出て良いかもしれない。それについても、親方に相談しなければならない。水野は、任せられた仕事の大きさに気づきながらも、喜々として庭作りの計画を練っていた。  同様に、廣沢は津田と相談しながら、居間の家具を入れ替えていった。  猫足の重い家具は全て売り払われ、すっきりとした直線を生かしたテーブルを買った。天板の縁にぐるりと施された、寄木細工が美しい。揃いの椅子の座面には、明るいクリーム色の麻を張った。きっと、暑い夏にも肌ざわりが良いだろう。 ピカピカと光るシャンデリアは、和風のものに変えて軽やかに。カーテンも、重々しい織物から、つるりとした綿に変えた。風が吹くと、白から紺と上から下に移り行くグラデーションがふわりと波打つ。 「もし、冬には寒々しいようでしたら、冬用のカーテンを用意して架け替えると宜しいかもしれませんね」 廣沢は、明るくすっきりとした室内を満足気に眺めわたすと、津田に向かってにっこり笑ってみせた。 津田も、同意するように頷くと、天井に視線を向けた。 「二階、でございますか?」 確か、波多野は急がないと言っていたはずだがと思いながら、何か言伝があるなら教えてほしいと廣沢は耳をたてる。 「ああ。あの野郎、妙なことを言い出しやがってなぁ」 「はぁ……」 何でしょう?と首を傾げる廣沢に、津田はとりあえずお茶をくれと頼んだ。それから、南の窓をがらりと開けると、庭に向かって廊下に座り込んだ。 庭をぐるりと見渡すと、遠くで水野が何かしている。鋏を使っているのかもしれない。 津田は、その様子を眺めながら、煙草を一本口にくわえた。火は点けずに大人しくしていると、じきに、廣沢が煎茶と灰皿を持って戻って来た。 「お待たせいたしました」 廣沢は、茶と灰皿を津田の手元に置くと、奥の和室から座布団も取ってきて、どうぞと進めた。 「おう、気が利くな。お前さんも使えよ」 そう言うと、煎茶を一口ぐびりと飲んで、煙草に火を点けた。そうして、深く喫ってふーっと大きく息を吐く。庭に放たれた煙がふわふわと霧散していく様子を目で追っていると、煙草の灰が長く伸びてきた。廣沢は、灰皿を指でつまんで落ちそうな灰の下に差し出した。 「悪いな」 津田は、灰皿を受け取って灰を落とすと、また深く喫った。 これは、どう話そうかと津田が頭の中を整理するために必要な時間だと、廣沢はとうに理解している。だから、焦らせないように、ごく静かに呼吸をして静かに待っていた。 暫くすると、お茶は空になり、煙草もニ本喫い終えた。廣沢がお替りをと立ち上がろうとすると、津田は手でそれを制した。 「待たせて、すまないな。波多野の用件ってのは、こうだ」 津田は、やっと口を開いた。 聞けば、二階をすっかりやり替えたいのだそうだ。空っぽになっている主寝室は仕事部屋に。娘たちが浸かっていた寝室を、一つは波多野、一つは津田用にしたいと。 「津田様の?」 「な?そうなるよな。俺もいらねぇっつったんだけどな。だいたい、俺の店は目と鼻の先だし、一つは俺用じゃなくて客用にしとけばいいじゃねぇか」 「お泊めするほどのお客様は、津田様しかいないということでしょうか」 「平たく言やぁそういうことなんだろうけど……。だからって、最初から俺の部屋にするってのも」 心底困ったと、津田は眉間に皺を寄せて、せっかく整えた髪をぐしゃぐしゃとかき回している。くせの強い毛先が、ぴょんぴょんと飛び出て、なんだかひどく幼く見える。 廣沢は、そんな津田に助け船を出すことにしてみた。きっと、それが雇い主の希望に叶うだろうと思いながら。 「これからは良い季節が続くそうですが、梅雨時に足元がひどくぬかるみますし、夏は霧の濃い日も多いそうですね。水野からの受け売りですが、冬の雪を考えるまでもなく、お泊りになることを前提にお考えのほうがよろしいのではないですか?」 「霧はなぁ、まぁ確かにとも思わなくもねぇが。わざわざ……」 「甘えてしまってよろしいのではないでしょうか。波多野様は、こちらに休暇を取りにいらっしゃいます。という事は、きっと津田様とゆっくりお話をしたりお酒を楽しまれたりしたいのでしょう」 「廣沢……。お前、管理人というよりも、映画に出てくる執事みてぇだな」 「私に仕事を教えてくれた人が、早川の家の家令でしたので。こういうやり方しか存じません。本来、どんな管理人をご希望だったのかも、実は計りかねております」 思わず口から出た感想は、予期せずに廣沢の胸中を吐露させることになった。津田は、困ったと眉根を寄せる廣沢の肩をぽんとたたく。 「廣沢は、廣沢のままやればいいさ。きっと水野はそんな事、考えちゃいねぇよ」 にやりと笑ってみせると、廣沢もほっとしたように笑った。 「はい。私なりに。それで、津田様のお部屋の件ですが、折角ですから、作ってしまいましょう」 「そうなるかい?」 「はい」 廣沢は、有無を言わせないとばかりに、くっきりと返事をした。その顔には、仕事用の笑顔が優雅に浮かんでいた。 ☆  結局、津田が折れた。 いや、費用を全て出してもらっておいて折れたというのも妙な話だが、といのは津田の弁である。 波多野と津田と廣沢は、速達の封筒を何本もやりとりして、二階の改築案を完成させた。 そもそも、津田の要望が少ないので、大げさな工事になりようがない。 一つ、畳に布団で眠りたい。 一つ、壁沿いに飾り棚がほしい。 それだけである。 波多野は、本当にそれだけか?としつこいほど念を押したけれど変わらない。ならばと、その要望は全面的に取り入れられることになった。 廣沢は、水野に土地の大工を紹介してもらい、具体的な図面を作ってもらった。 北側の元主人夫婦の寝室は、波多野の仕事部屋らしく、大きな本棚は作り付けにした。床は一階と同じ板張りだが、明るい色にした。南側の二間続きの寝室は、間の襖を板の引き戸に変えて小さな窓をつけた。もちろん、壁紙もさっぱりしたものに変えた。 津田が使う側には、たたみ四畳分の小上りを作る。夜には、そこに布団を敷いて眠る。昼間は、座布団と小机を置いて、窓の外を見ながら一服するのもいいだろう。 棟梁は、すぐに工事を始めて夏の終わりにはできあがりますよと請け合ってくれた。 その間も、水野は庭作りに邁進していた。 花壇の花が増えた、門が磨かれてピカピカになった、車寄せの罅の修繕ができた。毎日何かしらが良くなっていく仕事というのは、とても気分がいい。そして、その一つ一つを、廣沢はとても喜んだ。 政、政はいい仕事をするね。 修繕箇所や新しく植えた花の茎を撫でながら、そう言って笑う。感心したように、誇らしいとでもいうように。 水野は、それが嬉しくてたまらない。 修行中など、怒鳴られて時に殴られて仕事を覚えるものだ。それを特別辛いと思ったことはなかったけれど、屈託なく褒めてもらえる事がこれほど嬉しいとは思わなかった。水野は、少し自分がいい男になれたような気がしていた。 ☆  もうすぐ梅雨が来るという頃。早朝から、別荘の庭に水野の兄弟子たちが数人集まっていた。 親方に、庭の水はけについて相談をしたところ、助言と共に遣わしてくれたのだ。 水野が兄弟子たちを前に緊張していると、皆にやにやしながら、さっさと指示を出せと笑ってくれた。水野は、いかがでしょうと問いかけるようにしながら、作業を分担した。 庭の低いところに土を足したり、苔の小さな株をいくつも植え込んだり、玄関から門の間に平たい置き石を並べたり。 兄弟子の一人は、家の南側を渡る雨どいから、新しい鎖樋を下げている。その足元には、流れ落ちる雨水を受け流す錘を置く。こうしておけば、雨は静かに流れて、目にも美しい。 朝から始めた作業は、淀みなく進み、午後の休憩時間になっていた。 汗を拭こうと井戸端に戻ると、長椅子に麦茶と餡餅が人数分用意してあった。廣沢が置いてくれたのだろう。 「兄さんたち、お茶です」 水野が声をかけると、井戸の水で手や顔を洗っていた兄弟子たちも、嬉しそうに笑って答えた。 気持ちよく働いた後、甘いものとお茶があれば、男同士だって噂話に花が咲く。 兄弟子たちは、他所から来た別荘の持ち主に興味津々だ。 「なぁ、政。ここを買った人ってどんな人?」 「金持ちなんだろ?」 「若い?年寄り?」 親しい仲間内しかいないという事もあって、皆不躾なほどに、赤裸々な好奇心をのぞかせる。 水野は、浮かびそうになった苦笑いを押し込めて、努めて平静を装いながら答えていく。 「あまり、詳しいことは知らないんです。40歳くらいで、貿易商。独身で、すごくお洒落な方でした。俺なんかにも、すごく丁寧に声をかけてくれましたよ」 「へー。独身で、こんな大きな別荘を?近々結婚でもするのかねぇ」 一人が、ひどく感心している横から、別の男が口をはさむ。 「銀屋が出入りしてるんだろ?」 どういう関わりなんだよと問いかける目が言っている。水野は、なんとなく気おくれしながらも、聞かれたことにだけ答えるように言葉を選んだ。 「波多野さん、あ、ここのご主人ですけど、銀屋さんとは古い友人だそうです。そのご縁でここを買ったとか」 それ以上詳しい事は知らないと重ねて言えば、男達は勝手にわいわいと空想を広げる。 水野は、話題が転がっていくのを、聞くともなしに聞き流しながらお茶をすすっていた。すると、唐突に違う質問が飛んできた。 「そういえば、家と一緒に買われたっていう管理人は?どうなんだよ?東京もんはスカしてるんじゃねぇか?」 「案外美形だって聞いたぞ」 「主人に気に入られたってことか?」 途端に、また男達は口々に噂をしはじめる。水野は、その少し下品な臭いのする噂話を祓うように咳払いをする。 「そんなんじゃないですよ。建物の管理を任せられる人として、前の持ち主が波多野さんに紹介したんだそうです。買われた、とか、そんなんじゃないです」 憮然とした様子で、言い返すので、皆の声音が少し大人しくなった。 その少し気まずい空気を宥めるように、水野は言葉を繋いだ。 「それから、俺より4つ上の23歳だそうです。子どもの頃から以前の持ち主の家で働いていたそうです。学校もそこから通ったと」 「色々苦労もしてるんだな。地元はどこなんだよ」 「西のほうだって、言ってました。岡山だか、兵庫だか。その辺。広島ではないって」 やっぱり曖昧な返事しかできないでいるのを、兄弟子たちは水野が不愛想なせいだと笑った。 しまいには、「お前も悪いやつじゃないんだから、きっと上手くやっていけるよ」と励まされる始末だ。 水野は、うまく収まったと思いつつ、がんばりますと頭を下げた。 それにしても。 雑談をしながら、水野は思った。 主人のことを事細かく知らなくて正解だったと。 知らなければ、いくら聞かれても答えられない。話に尾ひれがつくこともない。 あれはそういう事だったのかと、その場に出くわして初めてわかった。 正直に言えば、別荘に関わる人間について、詳しいことを何も知らない事を不安にも不満にも思っていた。 廣沢は、そういう事は聞くものではないと言うし、津田も、話せるようになったらと言ってはぐらかしている。 波多野からは、最初に自己紹介があったきりで、それ以上の質問を許されるような雰囲気ではない。 考えすぎかとも思ったけれど、少し寂しいし信用されていないのかなとも思っていた。 しかし、そうではないのだ。 知らないほうがいい事もある。 それに、教えないと言われているわけではない。知るにふさわしい時期があるのだろう。 波多野や津田、それぞれの事も二人の間柄についても、廣沢の過去についても。 振り返って、自分の過去についてはどうだろう。 三人ともに、今の自分については、色々質問をしてくれた。でも、過去をほじくり返すようなことはしなかった。 波多野と津田、波多野と廣沢、津田と廣沢。それぞれに、踏み込まない距離を心得ている。 自分は、今までどうだったろう。思い返せば冷や汗が出るが、意味が分からずとも廣沢をまねてきたおかげで、大失敗はしていないはずだ。 水野は、他人の生活を支える仕事というものの一端を知ったような気がした。 その日の晩、廣沢と一緒に用意した夕飯を食べながら、思ったことを伝えてみた。 「こちらから聞くものじゃないって叱られて、良かったです」 「あの時は、頭から怒ってしまって申し訳なかったね。でも、気が付いてくれて嬉しいよ。私たちは、波多野様の生活に深く入り込むことで仕事をしている。だからこそ、静かな生活を守らなければならない」 「はい。知らなくて、良かったです」 「でも、もう少ししたら、知ってても知らない顔をする技術も身に着けてもらうよ。私も、政と秘密を共有できるようになったら、ぐっと楽になる」 「秘密を、共有……」 その言葉の威力に、つい復唱してしまった。そして、口に出してみると、甘さが舌の上を転がるようだ。 「そうさ。波多野様の秘密はこれから二人で守っていくんだ。もちろん、政の秘密も守るよ」 「俺の秘密?」 何かあっただろうかと、水野が首を傾げる。 すると、おかしくてたまらないとでも言うように、廣沢がころころと笑う。 「あるよ。寝言で饅頭を食べ損ねたのを惜しがったり、手の爪をとても丁寧に手入れしていたり、背中がかっこよかったりすることさ」 「せ……」なか?が、どうしたって……? 驚いたのと恥ずかしいのとで、水野の頬が熱くなる。箸と茶碗も持ったまま、口を半開きにして固まってしまった。 「やっぱり。政も知らなかったんだね。背中なんか、見えないから当然か。仕事終わりに、よく井戸で体の汗をふいているだろ?きれいですっきりしたいい背中なんだよ」 廣沢は、恥ずかしがる水野をそのままに、ふふふと笑っている。 ─── そんな事を言っている廣沢さんだって。 水野だって、彼の秘密を知っている。 細かい作業に気分がのってくると流れ出す鼻歌、花瓶に花を生ける時の真剣な横顔とできあがった時のほわりと緩んだ目尻。夜、ノートを書く時に頬に落ちる影。 言ったら、きっとやめてしまう。 それは、あんまり寂しいから。 楽し気に笑う廣沢を上目づかいに見上げながら、水野は口をとがらせたまま照れていた。

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