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第11話 ご褒美ソフトクリーム

……ん。 ふと、気が付いた。 そこで初めて、今まで寝ていたんだなとわかる。 今は、いつだろうと周囲の様子を伺ってみる。 ストンと襖の閉まる音がした。畳を静かに歩く足の気配がして、額から何かが外されて瞼が軽くなる。 あれと思っているうちに、今度は冷たいものが額に丁寧に押し付けられていく。 ああ、気持ちがいい。 足元に一瞬冷たい空気が吹き込んで、しっかりとくるまれていく。 そうか。  冷たいものが気持ちいいのは。瞼が開かないのは。足元を包んでいるのは。 合点がいった頃には、また足音が遠のく気配がして、襖がストンとしまる。 後には、穏やかな静けさが自分を包むばかりだ。  病人が寝かされているのは、台所から続く和室だ。当初、病人は二階の部屋から階下に降りるのを渋ったが、すぐに折れた。ツタが、階段の上り下りは辛いと泣きごとを言ってみせたせいか、水野が背負うと言いだしたせいかは定かでない。ただ、病人に二人を言い負かす気力がなかったという事は、間違いないようだ。 もともとは、波多野が休暇を終えて東京に戻るという朝、小さなくしゃみを一つしたことが始まりだった。 珍しいと水野が指摘すると、廣沢は大したことじゃないよと笑った。 言う通り、しばらくは問題なく、滞りなく波多野を見送ることもできた。 しかし、翌日の朝にはもう熱が出ていた。 何がいけなかったのだろうと、重い頭で考えてみた。 昨晩、緊張の解れた二人は、ツタと一緒に鍋をつついた。 残った食材は、好きに食べてくれと言われたこともあり、捨ててしまうのも勿体ないと沢山食べた。酒も飲んだ。 その後、ざぶっと風呂に入って気持ちよく寝た。そのはずなのに、ぶるっと寒気がして気が付くと、頭痛がして目が開かない。 やっぱり、よくわからない。 必死で枕元を探って、片目をすがめて時計を見ると、いつも起きる時間を1時間も過ぎている。慌てて上半身を起こすと、くらりと目まいがした。 そこへ、水野が何かをお盆に乗せて戻って来た。 「な」 何故起こしてくれなかったのかと問い詰めようとしたところを、まぁまぁと宥められながら布団に押し戻された。反論しようとする口に体温計をつっこまれ、用意してきた濡れた布巾を額に乗せられた。 「なん……」 何でこんなことをと言おうとしたのに、喉にひっかかって声がでない。 水野は、静かに首を横に振ると、口から飛び出した体温計をまた差し込んだ。 廣沢は、ただ大人しく水野のするに任せるより他なかった。 それから、丸一日、いや、二日は経っているだろうか。 どこかで階下に下ろされて、今はまだ目がはっきり開かないまま、とろとろと眠り続けている。 途中、医者が来たような気もする。冷たい丸いものを胸に押し当てられたり、背中をトントンと叩かれたりした。 その頃に比べると、手足のだるさは引いて来ているように思う。 試しに、寝返りをうってみた。 ゆっくりではあるが、体を横にむけることができた。ただし、額の布はずり落ちてしまった。 ─── ああ。このままでは敷布団が濡れてしまう。 ゆるゆると手を布団から出して、濡れた布巾を掴むと、ずるっと顔の上を滑らせて額に貼りつける。 手を離すと、やっぱりずるずると落ちそうになる。 廣沢は、諦めてもう一度寝返りをうって、仰向けになった。 さっき乗せてもらったばかりのはずなのに、布巾はもう温い。 ─── 誰か。誰か、来てくれないだろうか。布巾を取り換えてほしい。 そう思って、ふと我に返る。 何を甘えた事を考えているのだろう。今までは、ずっと自分でやっていたじゃないか。 病気の者は、離れの部屋に寝かされて。運ばれてきた食事を自分で食べて、もらった薬を自分で飲む。 額を冷やしたければ、自分で布巾を濡らして絞った。汗をかいたら、自分で寝間着を着替えた。 そうやって、自分で自分を治してきたじゃないか。 そうやって、また元気に働いていたじゃないか。 廣沢は、ふーと小さく息をはいて、上半身を起こした。 無理やり目を開けると、薄暗い部屋の真ん中に寝ていて、すぐ横に水のはった洗面器が置いてあった。 温くなった布巾を、そこにポシャリと落とし込んだ。 ゆるゆると広がる布巾を見ながらゆっくり体の向きを変えて、いざ絞ろうと洗面器に手をいれると嫌に冷たくて、背筋がひやりとする。 思わずひっこめた手を膝の下に敷いて温めながら、廣沢の頭をがくりと落ちた。 ─── ああ。こんな事が辛いなんて。 情けなくて涙がにじむ。 それでも、布巾を絞らなければならない。なぜなら、額は熱いし、座っているほうが辛くなってきているから。 廣沢は、今度は両手を洗面器につけて、思い切って布巾を絞った。 それから、ずるずると布団に戻って額にその布巾を乗せた。 ふーっと安堵の溜息がでた。 そこで、またしても廣沢の意識は遠のいた。 ☆  次に目を覚ましたのは、肩を叩かれて耳元で名前を呼ばれた時だった。 廣沢さん。廣沢さん。と、繰り返し自分の名を呼んで、気づかわしげに優しく肩を叩かれる。 何だいと呟いて、片目を開けると水野がいた。 「ああ、政。いてくれたんだね」 「はい。あの、一度熱を測りましょう。まだ、辛いでしょうけど」 そう言って、目の前に差し出された体温計を、今度はちゃんと指で受け取って脇に挟んだ。 体温を測っている間に、水野は廣沢の足首から下を暖かい布巾で丁寧に拭ってくれた。 それだけで、いやにさっぱりした気分がした。 「気持ちいいですか?」 そう聞かれたので、廣沢は小さく頷いて、口元を少し緩めてみせた。 すると、水野は廣沢の頬を優しく撫でて、すぐ戻りますと遠のいた。 水銀の体温計は、脇に七分挟む。 この時間が永遠かと思われるほどに長い。 まだだろうか。もういいだろうか。いや、脇が緩んでまた一から計りなおしは勘弁願いたい。 ぐるぐるとそんな事を考えている間に、また足音が近づいてきた。 「失礼します」 水野の声がして、暖かい手が廣沢の肌の上を滑って脇の体温計を抜いていく。ごろごろした細い棒がなくなっただけで、いやにすっきりした。 「ああ。まだ高いですね。もっと汗をかいて、熱を下げましょう」 どうやって? 廣沢が問うこともできないでいるうちに、水野はまたいなくなってしまった。 額の布巾は冷たいし、足元は少しだけきれいになった。それ以外は、ただだるくて熱いばかりで如何ともしがたい。 どうやったら、この熱がどこかに行ってくれるのだろう。 ぼんやりとそんな事を考えていると、すぐ隣の台所からゴリゴリと何かを摺りおろす音が聞こえてきた。 ─── おろし金?そんな薬があったろうか。 何も考えられない頭では、ただその音を聞いているしかない。 でも、あの音の正体が自分の熱に向けて準備されているものだという事はわかる。廣沢は、まな板の上の鯉とはこういう事か、などと気の抜けた事ばかり考えていた。 しばらくすると、襖が開いた。 今度は、額の布巾を外してその方角をしっかりと見た。 すると、水野が湯気をたてた大きな丼を持って戻ってきていた。 「それは?」 「熱さましです」 「だから、何?」 「大根と生姜を下ろして、熱湯を注いだものです。熱いうちに、一気に飲んでください」 「この量を?」 嘘だろう?と問い返すと、飲んでくださいと水野は無言で頷いた。 「ちょっと重いので、俺も支えます」 さぁどうぞと、水野は廣沢の胸の前に丼を差し出した。 火傷をしそうな湯気があがっていて、息を吸うと鼻が楽になるのも少し悔しい。 「どうしても?」 未練がましく聞いてみるが、やっぱり水野はうなづくだけだ。 廣沢は、支えてくれている丼に手を添えて、恐る恐る口をつけた。 ふーっふーっと息を吹きかけながら、熱い大根としょうがのおろし汁を飲み干していく。 湯気が熱くて、目が辛くて開けていられない。 飲んでいる途中から、額から汗が滲み始める。 途中で、もう無理だと何度も思ったけれど、水野は根気強く丼を捧げ持っている。 廣沢は、背中が暖まり始めるのを感じながら、丼を空にした。 飲み干すと、水野はすぐに冷たい水をコップに一杯飲ませた。 それから、ゆっくりと体を布団に戻して掛布団で首元から足先までをくるんでいった。 「すぐに全身に汗をかくと思うので、我慢できるだけ我慢してじっとしててください。俺は、着替えとタオルを持ってきます」 それだけ言うと、水野はいなくなってしまった。 廣沢は、熱い、熱いと、それだけしか考えられなかった。 短距離走を思いっきり走った時のように頬が熱くて、頭から噴き出した汗が髪をつたってぽたぽたたれる。顔中汗をかいて、唇をなめると当たり前のようにしょっぱい。 首、脇、背中、太腿、膝の裏。手足の指の間まで汗でぬるぬるしている。 ─── ああ、もう駄目だ。 そう思って布団を思い切ってはいだら、目の前に水野がいた。 「沢山、汗をかけましたね。拭いて、着替えましょう」 その前にと、またコップに一杯水をくれた。 それから、汗だくの寝間着を全部ぬいで、濡れた布巾で体を拭いた。冷えないように急いで替えの寝間着を着終わる頃には、シーツの交換が終わっていた。 「さ、また横になってください」 「うん」 廣沢は、何かやりとげたような気分で、布団に横になる。 水野は、洗濯ものを抱えて部屋を出たと思うと、すぐにまた水を持って戻ってきた。 「これを飲んで、また眠ってください。俺、ちょっと外に出てきます。台所か土間にばあちゃんが控えてるので、何かあったら声かけてください」 「わかった。仕事があるのに、私の世話ばかりさせて申し訳ない。あと少しだけ甘えて、ちゃんと寝るよ」 神妙に答えると、水野は、それがいいと目じりを緩めて頷いた。 ☆  次に目を覚ました時には、しっかりと目を開けることができた。良かったと安堵すると、胃がきゅるると鳴いた。 ─── 腹が、減ったな。 そんなごく普通のことを思いついたということに、また安堵して少しだけ笑ってしまった。 ゆっくりと体を起こすと、部屋は真っ暗だった。 窓のほうを見ると、カーテンが引かれている。もう、夜なのだろう。 廣沢は、手探りで部屋の電気をつけると、台所に行ってみた。 そこにも、誰もいない。 土間に続く引き戸を開けると、電気はついているし、ストーブもついているが、やはり誰もいない。 水野は、どこかに行っているらしい。 どうしたものかとストーブの前に座り込んでぼうっとしていたら、かたんと引き戸が開いて、水野が帰ってきた。何故か、手には蓋付きの椀を一つ持っている。 「やぁ、おかえり。遅くにどこに行ってたんだい?」 「まだ日が沈んだばかりですよ。これ、廣沢さんに」 「私に?」 何だろうと小首を傾げていると、また宥められながら布団に戻っていてくれと言う。その目が笑っていたから、廣沢は黙って言う通りにした。 すると、今度は空いたほうの手にスプーンを持って布団の傍に戻って来た。 「冷たくて、旨いと思って」 そう言って、蓋を開けると中に白いクリームが入っていた。 「クリーム?」 「ソフトクリームです」 ばあちゃんも、栄養があるからいいって言ってました。そう言いながら、いそいそと廣沢の上半身を起こして肩にカーディガンを着せかけた。 「食べて、いいの?」 「勿論です。さ、溶けないうちに」 そう言って水野が差し出すので、廣沢はまた恐る恐るスプーンを口に運んだ。 それは、ひやっと冷たくて、しっかり甘くて、舌の上で溶けて喉を流れ落ちていく。 「ああ、美味しい」 廣沢は、目を閉じて、その冷たさと甘さを味わう。 もう一口と、スプーンをソフトクリームに差し込んだ。すると、銀色のすぐ側から溶け始めて、形を保ったまま唇に触れて、またあっという間に溶けていく。 「ああ、気持ちがいい」 喉をゆっくり上下させて、廣沢は、何度も何度も乾いた唇をソフトクリームで癒した。 ☆  水野の用意した椀はすっかり空になり、わずかに残ったソフトクリームが筋のような模様を作った。 病人は、甘さと冷たさをとても喜んだ。「ご褒美だね」と嬉しそうに、子どものように笑っていた。 その一つ一つが、水野への褒美のようで、嬉しくて少し眩しい。 ソフトクリームを食べ終わった後、廣沢は風呂に入っている。 水野は、風呂場のすぐ傍に控えて、中で倒れたりしやしないかと様子を伺っている。 ざぶざぶと湯をかぶる音がして、控えめに湯に沈む音が聞こえてきた。湯船につかったのだろう。 水野は、その体を思い浮かべることができるようになった。 不可抗力だと言い訳しながら汗をぬぐった体を、着替えを盗み見た後ろ姿を、思い出すことができる。 これでは、まるで下衆野郎だと思う。 それでも、思い起こさずにはいられない。 あの髪や肌に触れても、嫌がられたりはしなかった。弱った体を預けてくれた。 その信頼が嬉しいのに、触れた記憶を思い出す時には、腹の奥が熱くなる。 心の底にしまってきた欲と、大事にしたいという思いがうまくかみ合わない。 嫌われたくない。 傷つけたくない。 傷つきたくない。 二人の今を、大事にしたい。 なのに、あの人に特別な思いをもってもらいたい。 水野は、自分の中に澱のように溜まっていく欲望と、確かにそこにある尊敬の念とが上手く混じりあわずにほとほと困っている。 ざぶんと水が大きく動く音がした。 水野が、はっと立ち上がりかけた時、中から声がした。 「政、いるかい?」 「は、はい」 「すまないけれど、まだ新しい着替えはあるかな?それとも、全部洗濯にいってしまってるだろうか」 「あ、あの、俺のでよければあります」 「そうか。それじゃ……」 「いま、いま、取ってきます。すぐに!」 水野は、廣沢の答えを聞かずに二階への階段をかけあがった。自分の欲も思いも全部後回しにして。 ☆  「思ったよりも、元気そうじゃねぇか」 二階の部屋の真ん中で、廣沢は布団の中で起き上がっている。肩には、ちゃんとカーディガンを羽織っている。 すぐ傍に、見舞いに来た津田が座っている。 夏も終わって西瓜はないがと言いながら、喉に良いらしいと梨を持ってきてくれた。 「はい。おかげ様で。政には、随分世話になってしまいました。ツタさんにも」 「たまには、他人に甘えるのもいいもんだ。特にお前さんみたいな奴はな」 「そうですね」 眉間に皺を寄せて言い返すかと思いきや、廣沢はふふふと嬉しそうに笑っている。津田は、面食らったような顔をして、その様子をまじまじと見つめた。 「何か?」 「いや。柔らかくなったなと思ってよ。鬼の霍乱にも良い事があるようだな」 「そうでしょうか」 廣沢は、やっぱり小さく笑いながら、それでも津田の物言いに反論しようとはしなかった。 そこに、水野が梨を乗せた盆を持ってやってきた。 「おう。悪いな」 「ありがとう、政」 廣沢が少し痩せた手で盆を受け取ろうとすると、水野はそっとその手を制した。 ぐるりと布団の足元をまわって、津田と廣沢の手の届くところに盆を置いた。そのまま出て行こうとするのを、津田は引き留めた。 「水野」 「はい」 気負いのない返事をして、水野は布団の足元近くに正座をした。 「風邪、うつってないのか?」 「はい」 それがどうかしたのでしょうか?と水野と廣沢が、首をかしげる。津田は、その二人を交互にみやった後で、つまらなさそうに溜息をついた。 「なんだよ。看病したんだろ?してもらったんだろ?で、廣沢とそんだけくっついてりゃ、風邪ぐらいうつるかと思うじゃねぇか」 「政は、ちゃんと気を付けていたんですよ、きっと」 つまらないと理不尽な文句を言う津田に、廣沢はなぜか自慢気に答えた。 そうなのかい?と津田が水野を見やると、水野は困ったように眉を八の字に下げながら、口元をもごもごさせている。 津田は、にやりと笑って、畏まって正座をしている水野の膝をポンと叩いた。 「役得くらいはあったみたいだな?」 水野は、ばっと顔を赤くすると、はじけるように部屋を出て行った。 それを、呆気にとられたように見送った廣沢は、くくくと肩で笑い続ける津田を見て、少しだけ不機嫌な顔をしてみせた。 「津田さま。政をからかっちゃいけません。どれほど親身になって世話してくれたか」 「そうだろうよ。だからこそ、ちょっとくらい良い思いもしたんじゃねぇかと思ったのさ。あいつは、とうの昔に友達を飛び越しちまってるってことさ」 「まさか……」 「まさかって、お前だっておかしいなと思ってたじゃねぇか。それに、水野がお前を思うようにお前が水野を思わなきゃいけねぇってことはねぇ。自分の気持ちがどうなってるのか、ようっく見てみたらいいんじゃねぇか」 「自分の、気持ち」 折角風邪が治りかけているというのに、目の前に難題が持ち上がってしまった。廣沢は、すっかり途方にくれてしまった。 さて。 素知らぬ顔で、津田は梨にかぶりつく。 廣沢が、「自分の気持ち」を知るのはいつになるだろう。 それは、どんな気持ちだろう。 そう言えば、津田から聞かされた水野の気持ちを、拒否していないことには気づいているだろうか。 いつまでも呆けているので梨をすすめると、深い溜息をつきながらも一つ手にとった。それを一口かじって、また深い溜息をつく。 「まぁ、ほどほどにな」 けしかけた本人は、気楽なことを言う。 今度こそ、廣沢の眉間に深い皺が刻まれたのであった。

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