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第12話 盛りの秋

 夏の終わりに、廣沢は風邪を引いてしまった。すっかり甘えて養生して、癒えた頃には秋が来ていた。 山の中腹にあるこの町が、一番美しく輝く季節だ。 湿った夏の風が、爽やかな秋の風に変わっていた。高くなった空を仰ぎ見ると、冷たい風に乗った雲が山の頂上を薄く覆っている。 雲を龍の化身だという言い伝えがあっても不思議はないというような形をしたままで、そのまま隣の山、また隣の山を撫でていくのだろう。 その山々の裾野が、赤く燃えている。紅葉の季節だ。 標高の高い山から順番に、木々は色を変え始める。それを遠くに眺めているうちに、街中のカエデや塀を伝うツタまでもが真っ赤に輝いて、あっという間に散っていく。 夏には観光客が群がる池も、今はひどく静かだ。その水面が鏡のように、カエデの赤と空の青を映す。まるで贅沢な絵のようだが、それも、水鳥が進む波紋にゆるやかに崩されてはまた、静かに結んでいく。 同じ頃、落葉松荘の敷地全体も紅葉し始めた。 廣沢は、それについて、一つ誤解していたことがある。カラマツも松なのだから、ずっと緑のままだと思っていたのだ。 しかし、実体はまるで違う。黄色から茶褐色に葉の色を変えるのだ。 黄葉したカラマツは、陽の光を受けると、大きな金の三角錐のように見える。 その様子をとても美しいと言ったら、水野は少し困ったような顔をして、これからの事を教えてくれた。 金色に輝くカラマツも、秋の終わりには一斉にその葉を落とすこと。その落ち葉は、雪が積もり始める前に掻いてしまわなければならないこと。それは、道路や庭だけでなく、屋根にも及ぶこと。 水野としては、そのためにまた職人たちを頼む必要があるということを伝えたかったのだが、廣沢には、まるで想像できない話だった。あれだけのカラマツから落ちた葉とは、どれほどの量になるのだろう。 わかったと頷きながら、どこかピンとこない顔をせずにはいられなかった。 「雪が、困るのかい?」 「はい。落ち葉の上に雪が溶けずに積もっていくんですけど、少し気温があがって雪が緩めば、凍ってた葉も溶けて滑ります。それに、屋根も痛みます」 「それは、まずいね」 廣沢にも、具体的な問題点が理解できた。落ち葉の対処については、水野のいいようにやってもらうことにした。 それから、もう一つよくわからない事を聞いてみた。 「雪って、そんなにすぐに降るものかい?」 よくわからないと問いかけると、水野は驚いたように少し目を開いた。 「なんだい?」 「ああ、すみません。東京って、雪はいつ頃降るんでしょう?」 「年明けからかな。一番降るのは2月だよ」 「この辺りの初雪は、早い年では今月の末です」 「10月!?」 びっくりして、大きな声が出てしまった。 そんな廣沢に、水野は小さく頷いて、その先を教えてくれた。 初雪は、すぐに消えてしまうこと。11月の末頃から本格的な雪が降るようになるという事。雪は、4月までずっとそこに残るということ。 「そんなにすぐに冬に?」 「はい」 そう答えた水野は、眉間に皺をよせながら空を睨み、口をへの字に曲げてしまった。 「もしかして、今年は早そうだ、とか?」 「いえ。いつもと変わらないと思います。毎年なんとかなってますから、仕事は大丈夫です。ただ、ばあちゃんが」 「ああ。お年寄りには、やっぱり辛いの?」 「そうなんじゃないかと思ってるんですけど、ばあちゃんは何も言わないんです。吹雪けば家から出られないし、雪かきだってしなきゃならないのに」 ─── ああ、そうだった。 台所でカトラリーを磨いていた廣沢は、庭での会話を思い出して、ふと目をあげた。 窓の外を見れば、秋の陽が傾き始め庭に、隣の教会の長い影が落ちている。 ─── そうだ。やっとわかった。 廣沢は、カトラリーに目を戻して、にっこりとほほ笑んだ。  波多野が東京に戻って秋を迎えた管理人たちは、仕事に追われる日々を終えて、日々のルーチンワークにのっとって働くようになっていた。 水野は、庭で。廣沢は室内で。 静かな室内に一人きりで、慣れた動作を繰り返していると、頭の隙間にすっと水野が浮かんでくる。 津田には、自分の心をよく見つめてみろと言われたけれど、水野を思い浮かべることに繋がってしまうようだった。 そして、思い浮かぶ小さな事実とそこから連想された想像と妄想を、じっと見つめ続けてきた。そいつらを追いかけていけば、どこかに答えがあるはずなのに見つからない。しばらくは、行き止まりに佇んで溜息をつくばかりだった。 しかし、それも今日までのようだ。 その証拠に、磨き終わったカトラリーを戸棚にしまったあとの吐息には、安堵の色が濃い。 冬を迎える祖母を心配する彼の様子に、初めて出会った日のことを思い出した。 あの日もそうだった。 まだ会った事もない相手に、十分すぎるほどの準備をしてくれていた。 長旅の後、慣れない雪道できっと困るだろうと考えてくれていた。 きっと、そういう男なのだ。 自分の手の届く範囲で、困っている人がいたら助けてしまう。困りそうな人がいると思ったら、少しだけ先回りをする。けれど、そこに恩着せがましさはない、そういう、性分なのだろう。 優しい。 そう一言で済ませるには、少し足りないような。 何か。 何か、水野から自分に流れ込む、何かがある。 そして自分は、それを全身で受け止めている。 目の前に、ホトンと落ちてきたようなそれに気づくと、頬がゆるんで笑みが口元に沸き上がって来た。 廣沢悟は、水野政文を好きだ。 その証拠に、流れ来る気持ちを、ただ安心と幸福とで受け取って喜びとしている。 「さて、困ったな」 そう呟いて、ヤカンを片手に蛇口をひねった。 「まぁ、急いでも仕方がないか」 あえて口に出して言うことで自分を納得させると、マグカップと紅茶の缶を取り出した。 恋の存在に気づいても、仕事が消えてなくなったりはしない。 それを、今はありがたいと思う。 しゅんしゅんと湯気のあがったヤカンから、迸るように湯を注げば紅茶の香りが立ち上る。とりあえずは、そのマグカップを持って、居間で待ち構えている家計簿をやっつけることにした。 ☆  管理人の仕事を始めて間もない頃、家計簿や書類の仕事は夜に回されていた。日中、他にすることが多くてできなかったからだ。 それが、今では昼間に済ませられるようになってきた。そのおかげで、夕飯の後の時間が自由に使えるようになった。二人は、二階の部屋でラジオを聞いたり本を読んだりして、思い思いに過ごしていた。 時には、納戸の奥で見つけた囲碁をすることもある。 廣沢はやったことがなかったが、水野がルールを教えてくれた。前の職場で、兄貴分たちと随分碁盤を囲んだのだそうだ。 しかし、それにしてはあまり強くない。 廣沢からすれば、水野の考えていることが手に取るようにわかる。なので、定石をある程度覚えた後は、それを組み合わせただけで勝つようになっていた。 今日も、廣沢が優勢だ。 「政、普段はあまり顔に出ないのに、勝負事になると全部見えてしまうようだよ?」 「はぁ。これでも、兄貴たちとは五分で勝負できてたんですが」 おかしいなと、しきりに頭をかきむしる。 「負けたら悔しいと思った負けるよ」 「え?」 「勝負事はね、最後に勝てばいいんだよ。一局ごとに一喜一憂することはないんだ。それと、勝ち方にもこだわっちゃいけない。どんな手でも勝ちは勝ち」 「碁は、やったことなかったんですよね?」 「碁はね。早川の家では、トランプと百人一首だったから」 「ちなみに、トランプは……?」 「ほどほどに負けるためには、ある程度強くないと難しいんだ」 しゃらっと言ってのける廣沢に、水野はがくりと頭を下げて負けを宣言した。 「廣沢さんには叶いません」 「政が、わかりやす過ぎるんだよ」 ふふふと笑いながら碁石を容器に戻していたが、一つ残した白を碁盤の目に置いたところで廣沢の手が止まった。 「廣沢さん?」 「あ、いや。うん。政の考えていることは、だいたいわかるような気がしているけど、肝心なことはわからないんだったと思い出したのさ」 「肝心なこと?」 なんだろうと、水野が首を傾げる。そこにあるのは、ただ無邪気で穏やかな暖かな心だ。 なのに今、廣沢は賭けにでようとしている。わずかな確率であっても、この心が離れていってしまうかもしれない。それでも、気が付いてしまった以上そのままにしておきたくないと、そう決めたのだ。 「そうさ。君が、水野政文が、私をどう思っているのか」 「どう、っっ、てっ」 瞬時に、水野の顔は赤くなる。それを嬉しいと好ましいと思ってしまう。そして、肝心な事を言う前に、反応を確かめてしまう自分を浅ましいとも思う。 「君は、私を好きだろう?でも、それはどういう好きなんだろうと思ってね。私は……。私も、君を憎からず思っている。思っているんだが、それは、君の好きと同じ方向を向いているんだろうか」 「あ、あ、」 廣沢の告白に、水野は口をぽかんと開けたまま言葉が出せずにいる。さっきまで碁石をつまんでいた指は、ぎゅっと強く握りしめられて、碁盤に強く押し付けられている。廣沢は、その手に手を重ねてみた。 「政」 「うあっあ、あっ、のっ」 これほど慌てているのに、手を振り払ったりしないのなら。やはり、水野は自分を好いている。 そう確信を持った廣沢にとって、初心な態度が呆れるほどに可愛いくて、胸が苦しくなるほど嬉しい。 この大きな手に、分厚い体に、自分を委ねてしまいたい。 そうしたら、この控えめで無口な男がどんな風になってしまうのか。それが見たい。 重ねた手が熱くなって、腹の奥にぎゅっと力がこもって、廣沢の押し込まれた欲情が吹き上がってきた。 「君からは、言ってくれないのかい?」 「い、いいんです、か?」 「この状況で、それを聞く?」 その瞬間、向かい合って座っていた水野は、がばっと立ち上がった。 え?と見上げると、空になった手を改めて握られて、引きずるように立ち上がらされて抱きしめられていた。 一瞬だった。 全てが一瞬で、廣沢に抗う隙はなかった。それが、この場合正解だろう。 水野の鼓動が服越しに廣沢に伝わり、廣沢の直線的な体が水野のがっしりした体に押し付けらえている。そのがむしゃらな勢いが、廣沢の胸にまた大きな喜びとなって広がる。 もっと、もっと見せてほしい。 もっと、もっとぶつけてほしい。 廣沢は、自分の腕を水野の腰に回して、ぐっと引き寄せてみた。すると、応えるように水野の腕が廣沢の腰を抱き寄せる。 ただ、思いがけず塊がぶつかり合って、猛烈な恥ずかしさを呼び覚ます。 「ま、政、ちょっと、苦しい」 嘘だ。 苦しくなんかない。ただ、ただ、恥ずかしいだけだ。自分の中に、急激に沸き起こる欲情が恥ずかしくて、振り回されそうになる自分が怖いだけだ。 「あ、す、すみません。あの、俺」 「うん」 「廣沢さんが、廣沢さんを、その、尊敬しています。本当です」 「うん」 「それから、その、惚れて、います」 「なら」 廣沢は、精一杯の勇気を出して、水野の頬を手のひらで包んだ。それから、そっと顔を近づけて、鼻の頭をくっつけた。 「あ、の」 「こっから先も、したいかい?」 「は、い」 良かったという呟きが、水野の耳に入ったかどうかは定かではない。 1秒もかからないうちに、廣沢が水野の唇に自身の唇を押し付けたから。 がつんとぶつかるような、そんな口づけだった。 すぐに離れた廣沢は、探るように水野の目をのぞき込んだ。すると、水野が恐る恐る廣沢の腰を抱きかかえなおして、膝の間に自身の膝を差し入れた。 その太腿の熱さを感じた廣沢は、もう迷わなかった。 薄い下唇を咬み、尖った上唇を吸った。食べるように唇全体を覆い、差し入れた舌で前歯をなぞった。 くちゅくちゅと水音がして、熱い吐息が互いの頬にかかる。 水野が、廣沢の舌をちゅぅと吸う。口蓋を舐めて、甘い唾液をすする。膝がゆれて、廣沢の腰もゆれて、膝に力が入らなくなって、水野が抱き留めるようにして畳に座り込んでしまった。 「あ……はぁ、はぁ」 「ひろさわさん、ひろさぁさん、ひろさん、ひろさん」 舌ったらずに呼ばれて、廣沢の体が熱く疼く。 「そう、呼んでくれるかい?」 「は、はい?」 「ひろさん、ってさ」 「はい。ひろ、ひろさん、好きです。ごめんなさい。好きです」 「なんで、謝るんだよ。お互い様じゃないか」 「はい……、はい」 水野は、ぎゅっとぎゅっと廣沢を抱きしめていた。その腕の中で、廣沢はゆっくりと興奮を冷ましながら、とらわれた甘美な不自由さに酔っていた。 ☆  静けさが戻ってくると、水野の鼓動が落ち着き始め、抱きしめる腕も緩んだ。 廣沢は、それをひどく残念に思い、同時にそんな自分に驚いてもいた。 男の気を、必死で引こうとするなんて。布越しに重ねた体が離れるのが、嫌だなんて。 まるで、女のようだと思う。 でも、それが正直な気持ちだ。口づけだけでは、じれったい。 駆け引きなんかはしたことがないけれど、わざと見上げるようにして視線を合わせてみると、照れ臭そうに目を逸らしてしまう。 背中に回した手のひらでゆっくり撫でてみても、撫で返してはこない。 なんだか、妙に悔しい。 初めて自覚した熱と欲が、廣沢を突き動かしている。 誘うように顎の先や耳たぶを唇で撫でてみるけれど、水野は顔を赤くするばかりで、動こうとしない。 「キスはできても、それ以上は嫌かい?」 業を煮やした廣沢は、両手を水野の肩に置いて膝立ちになると、見下ろすようにしてそう言い放った。 すると、慌てたような困ったような顔をして、水野が口ごもる。 「そんな、そんな事は、ない、です。その、でも」 「でも?」 「どうしたら、いいか」 そこで、廣沢は得心がいった。水野は、男同士でどうしたらいいか、わからないのだ。 もうひと押しと、廣沢は片手で水野の頬を優しく包んだ。 「女と寝たことは、ある?」 「一度だけ。商売女、ですけど」 「ああ、私もだ。兄さんたちは、そういう世話を焼くのが好きだよね」 穏やかに答えると、水野はほっとしたように口元を緩めた。 「はい。その、それだけしか知らなくて……」 「やり方なんて、知らなくていいよ。それより、私ともっと、したくない?そういう気持ちはある?」 廣沢は、水野を煽りながら段々不安になってきてもいた。ここまで来て、それはちょっとと及び腰になられてはあまりに切ない。 しかし、いつも無口な男は廣沢を裏切らなかった。 やっぱり優しい手つきで、膝立ちの廣沢を自分の足の上にまたがらせると、しっかりと抱きしめた。 「したい、です。廣沢さん、ひろさんともっと。もっと、奥まで、触りたい」 その瞬間、廣沢の背中をぞわっと何かが駆け上がった。 もうはっきりと、塊は熱く硬く育ち始めている。 ああ、私はなんていやらしいんだ。 廣沢は、自然に潤む目をしばたかせると、その腰をぐっと水野に押し付けた。 「ひろ、さん」 「沢山キスしたり、こいつを触りあったり、そんなことでいいんだ。そういう恥ずかしいことが、したい」 その声と視線に、水野の中で何かがはじけた。 「ひろさん……!」 いつになく荒っぽい手に翻弄されて、廣沢はいつの間にか仰向けになって、頬に沢山のキスを受けている。 その一つ一つが暖かくて嬉しくて。 でも、むずむずする腰や膝をどうにもできなくて、夢中で水野の背中を抱き返していた。

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