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〈番外編〉 訪問者 5
「藤代さま。勝手にパソコン見ちゃってごめんなさい……」
「ううん、大したもの入ってないから構わないよ。講義の資料に使いたいなら何かコピーする?」
「いいえ、お勉強の内容が難しすぎて綾音にはちんぷんかんぷんです」
「そう?」
「あっ、でも涼平君なら分かるんじゃない?涼平君、頭いいもの。何かコピーさせてもらう?」
「いや、俺も……難しくて……」
「遠慮はいらないよ。レポートにも何にでも好きに使ってどうぞ」
「いえ……」
何も知らない綾音が話を振ってくるが、俺も分からない振りをした。
「持ってっていいのに。僕には専門外の分野だから、その分野の人達に役立てて貰えれば嬉しいな。もし、ここにある資料で世界中の人々を少しでも救えるなら、ぜひ使って欲しい」
「!」
藤代さんのその言葉は、俺が構造式を理解していることを示している。既に分子式を解明し、難病の特効薬としての答えに辿り着いている構造式。それを世に広めよと言っているのだ。
優しい笑顔にゾクッとする。
本気で言ってんのだろうか……それとも俺を試す罠?
世紀の発見をこんな一介の学生に寄越すだろうか。俺が真に受けて発表したとして、誰が無名の学生が辿り着いたという奇跡を信じるんだ。待つのは栄光?いや、破滅だろう。一時の栄光を手に入れても、その先はずっと藤代さんの影に怯えなくてはならない。
いつバレるか、藤代さんに弱みを握られて何をさせられるか。良心の呵責と身の破滅の恐怖。どんなに甘い誘惑でも手を出せる訳がない。
でも、これが俺じゃなくて例えば生体科学の研究者だったなら。例えば難病患者を抱える大学病院のドクターだったなら。
破滅を知っていても手を出してしまうだろう。いや、目の前の栄光に目が眩み、辿り着く地獄は見えないかもしれない。
途端に藤代さんが得体のしれない存在に思えて怖気 が足元から這い上がり、それを振り払うように勢いよく立ち上がった。
「綾音、帰るぞ。藤代さん用事を思い出したんで帰らせてもらいます」
「えっ?涼平君、急にどうしたの」
「あれ、そうなの?残念だな。じゃあ玄関まで見送るよ」
「綾音さんさよなら。次は構内のカフェテリアで会いしましょうね」
「え、あ、はい。淳也さま、お先に失礼します。新学期にお会いしましょう」
綾音の手を引いて玄関に来て、靴を履き荷物を手に取った。先に外に出ると俺の後ろで綾音が藤代さんに挨拶をしていた。
「藤代さま、訪問させて下さりありがとうございました。藤代さまを身近に感じられて嬉しかったです」
「こっちこそお土産ありがとう。気を付けてお帰り」
「はい、失礼します」
「あ、待って」
「え、……」
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