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第27話

それから後の事を紡はよく覚えていない……思い出そうとすると頭がぼうっとしてきてしまう。その方がいいんだ、と紡は感じた。確かに痛くて苦しむような事はされなかったけれど、泣くくらい恥ずかしくて辛い事をされたり、言わされたりした――あれを全てはっきりと覚えていたら――きっと気が狂ってしまう。 部屋で一人になって――机の前で紡は顔を覆った。涙は出てこない。胸が痛くて重苦しい。泣ければ楽になりそうなのに。そう思って、両親を亡くしたときの辛さを思い出そうとした。霧原に性的なことを要求されるのも辛いが、それだと泣く前に頭がぼんやりし始めるから、涙が出てこないのだ―― その時、部屋のドアがノックされた。霧原かと思い紡ははっと緊張して顔を上げた。 ドアを開けて顔を出したのは弟の守だった。 「なんだ守か……どしたの?なんか用事?」 「兄ちゃん、顔色悪いね……」 「え!?そ、そう?」 紡は自分の顔をさすった。 「風邪かなあ……」 苦笑してごまかす。守が気づかわしげな表情をする。 「疲れてんだよ……勉強のしすぎだ」 守は紡のベッドに腰掛けながら続けた。 「あのさ兄ちゃん、聞いて。俺……高校行くのやめるって霧原さんに言おうと思ってんだ」 「えっ!?どうしてだよ!?」 守は膝の所で組んだ両手を見つめている。 「俺、ここ来てからずっと思ってたんだけど――霧原さんは、兄ちゃんに厳しすぎるよ」 「え……」 紡は驚き、言葉が出て来なかった。 「そりゃあ兄ちゃんは頭がいいから、期待するのはわかるよ?死んだ父ちゃんと母ちゃんもそうだったもん。将来紡がいい学校出て工場でっかくしてくれるといいなあ、って俺に話してた」 「え!ほんと?でも俺……そんなの知らなかったぞ?」 「うん」 守はうなずくと、仰向けにベッドに寝転がった。 「多分兄ちゃんに余計なプレッシャーかけたくなかったんだよ。そんな事言ったら兄ちゃん真面目だから、きっと無理してすごく勉強しちゃうだろ?だから自分の意思でそうするのを選んでくれたらいいな、って考えてただけと思う。自分らのためにさせるのは嫌だったんだよ、きっと」 「そっか……」 紡は弟の話を通じ――両親の思いやりを感じた。 「それがさ、肉親の愛情ってもんだよ」 守は大人びた事を言う。 「けど霧原さんは違う。俺たちを引き取ってくれた親切な人ではあるけど、あれはやっぱ、愛情とは違う……だって、条件付きだもの。俺のことはすげえ甘やかすだろ?でもあの人は、きっと遠回しに兄ちゃんにプレッシャー与えるためにそうしてるんだ……兄ちゃんが優秀でいさえすれば、俺のことも可愛がってやるからな、って。兄ちゃんがおとなしく言うこと聞いてればあの人は俺らを養ってくれるけど、もし兄ちゃんに何かあってそうできなくなったら――きっと冷たくなって、俺らのことなんか放り出す。だから兄ちゃん、必死になって霧原さんの期待通りでいようとしてんだろ?わかってるんだ、俺」 守がここまで察していたとは――紡は何も言えなかった。 「兄ちゃんホントは、霧原さんに付き合ってクラシック聴くのも好きじゃないだろ?頭いい奴らとしか遊ばしてもらえないのも、ほんとは嫌だろ?――俺のダチの兄さん、兄ちゃんと同じ高校行ってるんだ。その兄さん、俺が遊びに行った時、ほんとは紡と遊びたいけど、勉強忙しいから無理なんだよなーってぼやいてた。紡は面白いやつなのに、って残念がってたよ」 「え、それ、誰?」 「片品ってやつ」 片品!紡は嬉しかった。ヨシヒロだ。そんな風に思ってくれてたなんて―― 「片品の兄さんから聞いたけど……霧原さんが許可してうちへ呼んでもいいって言ってる兄ちゃんの友達連中、性格悪いんだって。自分らが成績上位で金持ちだからって、他の奴らのこと見下してバカにしてるんだって」 紡は内心吹き出した――その通りだったからだ。彼らと付き合っていても――そうした自分たちの特権意識をひけらかすような話題ばかりで、楽しいと思ったことはなかった。 守は起き直り、紡の方へ身を乗り出した。 「紡は絶対ああいうタイプじゃない、ってその兄さん言ってたよ。……なあ兄ちゃん、もう霧原さんの言う通りするのなんか止めちゃえよ。それで霧原さんに見捨てられたら、この家出て二人で生きていこう。俺中学卒業したら働いて、今まで霧原さんに世話になった分はなんとか返す。それに、もういじめられて泣いたりしないから心配いらない。俺、空手部入って自信ついたんだ。これからは俺が兄ちゃん守るから、兄ちゃんは自分がしたいようにするべきだよ!やらしい本だってさ、好きに読んで!」 紡は我慢できず本当に吹き出した。 「ヨシヒロ……何言ったんだよあいつ……あ!守!まさかお前、ヨシヒロの本……」 守は舌を出して頷いた。 「うん。見た」 「しょうがないなあ……」 苦笑する紡に守は真剣に言う。 「兄ちゃん、本気で考えてよ。そりゃここ追い出されたら大学は行かせてもらえなくなるけど、自分で勉強する方法だってきっとある。そうして生きていってる人だっているんだから」 「うん……そうかもしれない」 紡は頷いた。弟の子供らしい正義感に溢れた、素直な、自分に対する思いやりが嬉しかった。 「守、ありがとうな。わかった、兄ちゃん本気で考えてみるよ……」

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