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第35話

階段を上がって瀬島の会社のドアの前に立った時、内部からいきなり 「瀬島ァ!ッざけんなこのぉ!ぶっ殺されてえのか手前(てめ)ェは!」 という恐ろしい怒鳴り声が聞こえた。 紡は反射的にドアノブを掴んで勢いよく開け、中へ飛び込んで叫んでいた。 「おじさ――瀬島さんッ!?大丈夫!?」 事務所の中には、瀬島のデスクに尻を乗せ、諸肌脱ぎになって背中の派手な龍の入れ墨を見せつけている男と、その前に座り驚いた顔で紡を見ている瀬島の姿があった。掴み合いでもしているのではと紡は思ったのだが、そんなことはなかった。 「なんだいコイツぁ……?」 入れ墨の男がぽかんとして紡を指差し瀬島に尋ねた。 「お前の隠し子かい?」 「バカッ大川!んなわけあるかい!」 入れ墨は大川というらしい。瀬島は大川を叱りつけると、デスクの前から立ち上がって紡の所へ来た。大川に向かって言う。 「手前ェはその物騒なもんとっととしまえ!この子は大事な客なんだから!」 意外なことに大川は瀬島の言に従ってシャツをきちんと羽織り、(ボタン)をはめ出した。紡の前で瀬島が尋ねる。 「俺は大丈夫だよ……お前こそ大丈夫か?」 「は、はい!大丈夫です。すいません、急に入って。おじさんが襲われてると思ったからつい……」 瀬島は感に堪えない、というような表情をした。後ろから優しく紡の両肩を手で包み、ソファに連れていく。 「なんだよぉ、お前、こんな細っこい(ナリ)してるくせに……俺を助けようと飛び込んできてくれたわけ?」 そこで急に紡は気づき、恥ずかしくなって顔を赤くした。瀬島も大川も……自分より遥かにがっしりしていて強そうだというのに…… 「そ、そのつもりだったんですけど……そうですよね、よく考えたら……俺なんかが飛び込んだところで大人の人になんてかなうわけないのに……どうする気だったんだろ……馬鹿でした、すみません……」 「いやいや、おじさんは嬉しいよ。いい子だなぁ」 瀬島は嬉しそうに言って紡の頭を優しく撫でた。 「ささ、ここ座って。おい大川!給湯室の茶菓子もってこい!」 「ふああ?」 大川は間抜けな声を発しながら、なぜか素直に給湯室へ行き菓子入れを持ってきた。おまけに土瓶まで下げて茶碗も指に挟んでいる。いい人なのかな?と紡は思った。 「あのう……喧嘩してたんじゃないんですか……?」 「いやいや。喧嘩じゃないです」 瀬島は紡の隣に腰掛けた。 「商談がね?ちょっと上手くまとまらなかっただけで」 大川が横を向いて吹き出す。 「商談ってか!カタギのフリしやがってこいつは!」 「俺ぁカタギだっつの!」 瀬島は、仲の良い友人にするように紡の肩に腕を回しながら大川に抗議した。紡は、先刻からのその瀬島の態度が、大川の入れ墨を見てしまった紡が怯えないよう気を使ってのものだと気がついたので、そうやって肩を抱かれるままじっとしていた。 「じゃ、本日の取引は終わったから。大川くんは帰って」 「はいはい」 大川は呆れたように答え、淹れた茶を紡の方へ押しやってすすめながら目配せすると、事務所から出ていった。きっと、自分みたいな子供を不必要に怖がらせないよう配慮したのだ、と紡は彼らの自分に対する対応に酷く大人なものを感じ、尊敬した。 「どうした……?なんかあったのか?」 大川が出ていったのを確認してから、瀬島が心配げに紡に尋ねた。 「あ!いえ、そういうんじゃ……あの、この間親切にしてもらったので……おじさんにまた会いたくて……」 紡はため息を付いた。 「迷惑ですね……ごめんなさい。さっき……自分が行きたくないと思った予定を初めて自分から断れたから……なんだか調子乗っちゃって。それで、もっと何かできるような気になっちゃって、会いたいと思ったおじさんとこに会いに来ちゃったんです……」 「そうだったか……」 瀬島は肩に回していた腕で紡の頭を抱え、髪をくしゃくしゃと撫でた。 「そりゃ偉かったなあ」 「偉い、ですか……?」 「嫌なことにちゃんと嫌って言えたんだろう?偉いじゃないか」 「ほんとは、嫌とは言えてない……仮病使ったから」 瀬島が笑う。 「そっか、正直でいいや。でも自分の意志を通したってことに変わりはないよ。それにおじさんに会いたいと思ってくれたってのも嬉しいなあ。よし、褒美になんかうまいもんおごってやろうな!」

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