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憎くて愛しい俺のエネミー 8

 スポーツブランドのシャツに包まれたその背中。俺は転校するまでずっとこの背中を追いかけていた。  森正は俺のことをすっかり忘れてしまったみたいだが、俺だって別に常に森正のことを考えていたわけじゃない。友人たちや彼女と過ごす日々の中、森正なんて意識の底の底に沈んでしまっていた。  それでもときどきはふつりと浮かび上がってくることがあった。  心臓に空いた風穴が、どうしても森正を忘れさせてくれなかった。この穴を空けたのは森正だからだ。  大嫌いなのに懐かしくてたまらない。憎たらしいのに思い出すと泣きたいくらい切なくなる。  俺にとっての森正は、なんとも奇妙な存在だった。 「ここが娯楽室だ。テレビは娯楽室と岸田さんの部屋にしかない。知ってると思うけど、寮にテレビやパソコンは持ちこみ禁止だ。娯楽室はどの棟にもそれぞれひと部屋ずつある。どの棟でも出入りは自由だから、好きなところを使っていいぞ」  森正は先に立って廊下を歩きながら、淡々と寮の案内をしていく。  俺はさっきからずーっと森正を睨み続けているのだが、森正は少しも気にするようすがない。これほどあからさまな敵意にどうして気づかないのか。理解不能だ。  さっさと気づいて、さっさと殴りかかってこい。子供のころみたいに拳でやり合えば、俺が誰なのかすぐに思い出すはずだ。  もどかしい。足をジタバタさせたい衝動に駆られる。  すぐそこに森正がいるのに。話したいことや訊きたいことがたくさんあるのに。  まだ空手は続けているのかとか、森正のお姉さん――千夏さんはお元気でいらっしゃるのかとか、その他もろもろの思い出話だとか。  森正が俺を思い出さなくては、話題のひとつもふれないではないか。 「この硝子張りのドアが読書室だ。読書室にはパソコンもおいてある。読書室も全棟にあって、娯楽室と同じでどこを使ってもかまわない。医務室と購買部があるのは桂秋だけだ。他に訊きたいことはあるか?」  森正はいきなり立ち止まると、俺を振り返った。  ようやく視線が真正面からぶつかる。いまがチャンスだ。俺は王子様みたいと称賛され続けてきた顔を限界値まで獰猛にして、森正を睨みつけた。 「なに、おまえ。俺に喧嘩売ってんの?」  小学生のころの森正ならそう言って、俺にためらいなくつかみかかってきた。森正は喧嘩が好きで好きで大好きなのだ。  それでいて弱い者や女子に狼藉を働くことは決してなかった。いじめられていたり、困っているクラスメートがいたりすれば、逆にさりげなく助けてやっていた。  俺は大嫌いだったし、いまも現在進行形で大嫌いな男だが、森正にもまあ少しはいいところがあるのだ。  さあ、俺にかかってこい。  俺はファイティングポーズを作って、森正の拳を待ちかまえた。 「訊きたいことがないなら部屋にもどるぞ」  森正は俺の目つきやポーズに一切の興味を示さず、すっと視線を逸らすと、ふたたび廊下を歩いていってしまった。  ……いや、おい、ちょっと待て。俺のこのポーズと目つきの悪さをどうしてくれるんだ。  小学生のころは毎日のように喧嘩をしていた。きっかけはいつもささいなことだった。  どっちの給食の量が多いだとか、一個残ったプリンはどっちのものだとか、転がった消しゴムを踏んだだとか。いまから思えば世にもくだらないことで喧嘩していた。  それなのに、どうしてだ。  少し考えると、ひとつの答えが見つかった。  ひょっとして俺は森正の目に『とても喧嘩のできそうにない上品な転校生』として映っているのかもしれない。  自他ともに認めるところだが、俺は気品にあふれた容貌をしている。森正みたいな野蛮人からしてみれば、俺は貴公子も同然だ。  喧嘩ができるように見えなくても当然かもしれない。  ふっと微笑みながら前髪を掻き上げる。  人を見た目で判断するとは、森正の野性の勘も鈍ったものだ。かつての森正なら、内側に秘めた強さをすぐに見抜いただろうに。  いまに見ていろ、森正克寛。  この俺を侮ったことを後悔させて、地べたに膝を折らせて、詫びを入れさせてやる。  俺は森正の背中にびしっと指を突きつけたが、通りすがりの生徒に珍妙な生き物を見る目を向けられたため、慌てて手を引っこめた。

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