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憎くて愛しい俺のエネミー 21

 すっかり忘れていた記憶がよみがえる。  あれは小学校三年生のときだった。記憶の中のいとけなくも愛くるしい俺は、ベランダの植木鉢の前にしゃがみこみ、如雨露で水をやっている。澄んだ瞳は期待に輝き、少し盛り上がった茶色の土をじーっと見つめている。 「史路、あなたかなり前からその植木鉢に水をやってるけど、いったいなんの種を植えたの?」  幼少の俺に訊ねてきたのは、いまよりも八年ぶん若い母さんだ。俺はキラキラした目で母さんを振り返った。 「チョコレートの種」 「……え?」 「チョコレートの中に種が入ってるのあるでしょ。あれ埋めたの」  母さんは瞬きして俺を見つめると、眉を緩く寄せた。 「ひょっとしてアーモンドのこと……?」 「うん、克くんが言ってたんだ。アーモンドはチョコレートの種だから、土に埋めて水をやればチョコレートの木が生えてチョコレートの実がなるって」  そうしたらチョコレートが食べ放題だ。俺はまだ見ぬチョコレートの木への期待に、薄い胸をふくらませていた。  あのときの母親の目――可哀想な生き物を見るような目はいまでも忘れられない。  まだある。あれはそれよりさらに一年ほど前のこと。  当時、小学校二年生だった俺は、同じクラスに好きな子がいた。ななみちゃんという明るく元気で可愛らしい女の子だった。ななみちゃんも俺のことを少なからず想ってくれていたと思う。  俺たちが手をつないで歩いているのを、森正はどこからか見ていたらしい。ある日、こう言ってきた。 「シロ、おまえきのう女と手ぇつないで歩いてただろ。男と女が手をつなぐと子供ができるんだぞ。こうなったら責任取って結婚するしかないな」 「せ、責任?」  軽い気持ちで手をつないだ俺はぎょっとした。 「結婚して、会社いって、給料もらって、奥さんと子供にごはんを食べさせてやるんだよ。それが父親の役目だろうが。会社にいくならもう学校にはこれないな。つうことは、給食も食べらんないのか。明日はおまえの好きなミートボールなのに、残念だったな」  幼いが幼いなりに生意気な面構えをした森正が、深い同情のこもった目で俺を見た。  俺は絶望した。  たった七つでもう社会に出なくてはならないのか。青春をすっとばしてくたびれたサラリーマンになるなんて、これほどの不幸があるだろうか。  おまけにこのあと子供は雇ってもらえないから、とかいう理由をつけて、鼻の下に油性ペンでヒゲを書かれてしまった。しばらくの間、俺の幼い美貌の邪魔になったのを覚えている。  この手の嘘は俺が引っ越すまで続いた。  隅田川にはネッシーならぬスミリンが棲んでいてときどき火を吐くだとか、きのうの火事はそのせいだとか、担任の女教師は実は女装している男だとか、校長のズラを取ると願い事がなんでも叶うだとか。思い返せば信じてしまったのが不思議なくらいどうしようもない嘘ばかりだ。 「あなたっていっつも克寛くんと喧嘩してるくせに、どうして彼の言うことをすぐ信用するの」  母さんはときどき呆れた口調でそう言った。  しょうがないではないか。俺は子供のころから人は信じるに値するものだと思ってきたし、森正はガキのころから真顔で嘘を吐くのが上手かったのだ。五年と半年という短くはない時を隔てたいまも、それは変わっていないようだ。  転入したてで右も左もわからない相手にいい根性だ。それでこそ森正克寛。殴りがいがあるというもの。

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