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第54話

 部屋に戻るまで俺も佑真さんも何も話さなかった。 重い沈黙に何を言えばいいのかもわからない。 ただ佑真さんを失う事が怖くて、逃げるなと言った慎吾の言葉に無理だ俺にはできないと何度も心の中で呟いていた。 「翔、何をそんなに怯えているんだ」 まだ小刻みに震える俺をソファに座らせ、静かに訊ねる佑真さんの優しさが辛い。 「俺……俺は……佑真さんに優しくされる資格なんかない……」 「……水沢と何があった?」 耳に届く佑真さんの声は優しくて、それが余計俺を不安にさせる。 「い、やだ……嫌だ……」 何も知られたくない、このまま佑真さんのそばにいたい。 「翔……俺を見ろ」 「佑……真……さん」 そっと頬に手を添える透き通るような佑真さんの声に視線を上げると暖かい瞳に包み込まれるようで涙が溢れた。 「お前を責めたいわけじゃない。一人で抱え込んで悩んでいるお前を見ているのが辛い」 「でも……っ!怖いんです……」 話せばもっと辛い思いをさせてしまうかもしれない、そうじゃなかったとしても俺の事なんかきっとどうでもよくなってしまう。 「お前のその怖さを消してやるから……だから話してみろ」 零れる涙を親指で拭う佑真さんの真っ直ぐな眼差しに『五十嵐さんなら大丈夫だ』と慎吾の声が脳裏を過った。 「佑真さんのそばにいられなくなる事が……怖いんです。きっと……きっと佑真さんは俺の事なんか嫌いになってしまうからっ」 「何があったってお前を嫌いになる事はない」 「俺……俺は……兄さんに抱かれた……んです……」 佑真さんから顔を背け目を伏せた。 兄さんはそれを聞いた時の佑真さんがどんな顔をするのか見たいと言っていたけど俺は見たくなんかない。 「そんな事で俺がお前を嫌いになると思っているのか?」 「そんな事って……!」 何でもない事のように言う佑真さんの真意がわからない。 「好きで水沢に抱かれたんじゃない事くらいわかっている。だからそんな事どうでもいい」 「どうでもいい……ですか」 「ああ」 佑真さんの言葉に心が凍り付いたように冷たくなる。 佑真さんにとっては俺が誰と何をしようがどうでもいい事なのか。 「そう……ですか」 兄さんは傷つく佑真さんが見たいと言ったけど、俺の事で佑真さんは傷ついたりしない。 辿り着いた答えに切なさが込み上げる。 「翔?」 「もう俺にかまうなっ」 佑真さんの手を振り払い、行き場を失くした俺の切なさは虚しく床に落ちていった。 「何言って――」 「俺の事なんかどうでもいいんだろ!?」 「どうしてお前は……」 俯く俺に伝わる佑真さんの苛立つ空気に泣き出して逃げ出してしまいたくなる。 「あのな、翔、どうでもいいのはお前の事じゃなくて、水沢に抱かれた事だ」 溜息をつき、ゆっくりと言葉を紡ぐ佑真さんを見上げるとしょうがない奴だなという顔で笑っていた。 「だから、兄さんに抱かれた俺なんかどうでもいいって事だろ……」 「そうじゃない。俺にとって大事なのはお前の気持ちなんだよ。水沢に抱かれて俺に嫌われるって思ったって事は、俺の事が好きだからだろう?」 投げやりな態度の俺を諭すように話す佑真さんに黙って頷いた。 「お前の気持ちが俺にあるなら他はどうでもいい」 至って真面目な顔で見つめてくる佑真さんに困惑してしまう。 一般的に言えば恋人意外とヤるって浮気ってやつだよな。 それを俺が佑真さんの事を好きならそれでいいって……俺ならたとえ佑真さんが俺を好きだって言っても他の人とヤったら嫌だ。 嫌いにはならないけど嫌なものは嫌だ。 「……嫌だって思わないんですか?」 「嫌に決まっているだろう。だけどお前を失う事の方が嫌だからな」 「はぁ……」 当然というような顔をしている佑真さんに俺の価値観が音を立てて崩れていく気がした。

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