3 / 5

2 限られた時間の中で

 清潔な白いベッドの上で安らかな寝息を立てている宵娯を見ながら、何度もその胸元に耳を寄せて鼓動を確かめる。そうせずにはいられなかった。 「原因が分からない?」 「ええ。残念ながら。我々も手を尽くしたのですが、分かるのは彼の臓器がほとんど使い物にならなくなっており、ここまで生きていられたのが不思議なほどです」 「そんな、一体どうして……」  救急車を呼び、宵娯を診てもらった後、医者に呼び出されて説明を受けたところ、そんな信じがたいことを言われる。そして、余命宣告まで下された。持って3カ月、短くてひと月以内と。 「臓器のほとんどを移植する方法を取るにしろ、莫大な費用がかかりますし、何より時間がかかってしまい、その間にお亡くなりになってしまう可能性も……」 「やめて下さい」  悲鳴のような声を上げ、医師の残酷な説明をそれ以上聞くまいと遮る。同情に満ちた目をされるのも苦痛で、その後は冷静に聞くこともできずに診察室を出た。  今まで健康体そのものだった彼が、突然こうなってしまった理由は分からない。分からないが、これも櫻人とやらの血の呪いのせいなのだろうか。だとしても、どうしてこんなに早く。  侑惺は運命を呪いながら、とめどなく流れる涙を堪えることもせずに、悲痛な嗚咽を薄暗い廊下に響かせた。  そして、しばらくして落ち着いてくると、今度は無性に宵娯に会いたくなり、涙を抑えながら病室に向かって今に至る。  苦しんでいたのが嘘のように穏やかに眠っている宵娯を見ていると、悪い夢でも見ているような気になってくるが、残念ながらこれは永遠に覚めることのできない現実だ。  自分が代われたらいいのに、という思いが生じたが、すぐに打ち消す。もし代われたとしても、それでは意味がない。二人一緒でないと幸せになどなれないのだから。 「宵娯、しょうご……頼む。行かないでくれ」  鎮痛剤の力で眠り続ける宵娯の腕を取り、手の甲に口付けながら祈るように懇願する。 「まだ二人で住むことを許されたばかりじゃないか」  先日、宵娯は義理の両親に、侑惺は母親に全ての事情を打ち明けた。それぞれの父親はまだ塀の中だが、父親たちからも二人の未来を応援する手紙が届き、大学に入学と同時にルームシェアというかたちで一緒に住むことを許可してもらったのだ。  入学まで一週間を切ったばかりに、宵娯の方から花見に誘われて出向いた後にこんなことになるなんて、誰が想像できただろう。 「まだこれからだ。そうだろう?」  語りかけながら、眠り姫にするようにそっと唇を合わせる。病人とは思えないほど艶やかで弾力のある唇の感触に夢中になり、そのまま何度も角度を変えて重ねていると、宵娯が反応を示した。  自ら唇を開き、誘うように舌先で割れ目を辿ってきたので、素直に迎え入れると、巧みな舌使いであっという間に侑惺はとろとろにさせられた。 「ん、ふっ……」  しばらくそうして飽きることなく貪り合っていたが、やがて宵娯の点滴で繋がれていない方の手が侑惺の服の中に忍び込んできたので、我に返る。 「しょう、だめ」  制止しようとするも、いつものように強引に引き剥がすこともできず、どうしても躊躇いが生じてしまう。そして、その隙をついて胸の尖りを摘ままれた。 「ひっ、ぅ……」 「誘ってきたのは侑惺の方だろう。それに、キスだけでやる気になっているじゃないか」 「ぁっ」  にやりとしながら、欲望の証を指でなぞられる。それだけでひくりと震えてしまい、高い声を漏らしそうになったのを辛うじて抑え込む。その様子を実に楽しそうに眺めた宵娯は、そのまま性急に侑惺のズボンに手を掛けてきた。 「まっ、その、前に話が」 「しながらでも話はできるだろう」 「だ、大事な話なんだ。だ、から、やめて」  ズボンを擦り下ろされて下着姿にされながらも、いつものように扱かれて思考が不明瞭にされては叶わないと必死で言いくるめようとする。  すると、下着からいちもつを取り出されたところでようやく手を止めてくれた。まるで餌を目の前にした獣のような目つきをしながらだったが。 「大事な話というのは、何だ。俺の体に何か悪いものでも見つかったのか」  笑みを含んだ口ぶりに本気の空気はない。あくまでも冗談のつもりなのだと思って、まともに宵娯の顔を見られずに俯くと。 「俺の余命宣告でもされたんだろ」  急に真剣味を帯びた声色になったので、はっとして顔を上げる。口元に笑みが浮かんでいるのは相変わらずだが、目が笑っていなかった。 「あとどれぐらい俺はもつんだ」 「もって3ヶ月だって」  震える唇でようやく言えたのはそこまでで、短くてひと月しかないとまではとても言えなかった。 「そうか……」  力を失くした声を出し、宵娯はベッドの背もたれに凭れかかった。 宵娯の顔を見つめると、綺麗な顔立ちの中に憂いが生じ、一層息を呑むほど美しさを増した。しかし、それは華やいだ美しさというよりは、すぐにでも散って消えてしまいそうな、例えるならば桜のような儚さだった。そこに櫻人の性さががあり、宵娯が取り込まれてしまうようで息苦しくなる。 「もう、いいんだ」  沈黙が重く横たわった病室で、宵娯の声が静かに響く。 「え、いいって……」  意味を測りかねて尋ねると、宵娯は淡い笑みを浮かべて言った。 「俺は侑惺と想いが通じ合えて十分に幸せだった。だから、これ以上望むことはない」  まるでそのまま死ぬことを許容したような言葉に、底のない悲しみと同時に怒りさえ込み上げてきた。 「やめてくれよ。簡単に諦めないでくれ。まだまだ、これからなのにっ!俺は、俺は絶対に諦めないからな!」 「侑惺」  激情に駆られる侑惺とは反対に、恐ろしいほど冷静な声で名前を呼ばれて、それが二人の間の気持ちの差を伝えてくる。そのことに耐えられなくなって、宵娯の病室を飛び出した。  そのまま駆け出してしまいたかったのだが、病室を出た途端に足から力が抜けてしまい、ドアに背を預けたままずるずるとへたり込んでしまう。宵娯に聞かれるかもしれないからと理性が訴えてくるが、いくら歯を食いしばって堪えようとしても涙は止まってくれなかった。  体中の水分がなくなってしまったかと思うほど泣いてしまった後、ようやく気持ちを切り替えて泣き止むことができたのは、マナーモードにしていた携帯が着信を伝えてきてからだった。  ディスプレイを見ると、相手は母だ。自分のことでいっぱいいっぱいでうっかりしていたが、宵娯が倒れたということを伝えて以来、連絡が途絶えていた。  慌てて携帯を手に病院の外に出たが、結局掛け直すことになった。 「もしもし、母さん」 「ああ、やっと出た。桜庭さんご夫婦もそろそろそっちに着くそうよ。宵娯君の方はどうだったの?」 「それが……」  事情をかいつまんで説明すると、母が電話越しに息を呑む気配がした。 「……そう、やっぱりその子もあの血を受け継いでいるのね。結局私たちは、その血に振り回される運命なのかしら」 「母さん。宵娯のお母さんのことは」 「分かっているわ。正直、今でも恨んでいないと言ったら嘘になるけど」  母のやや苛立った声を聞きながら、大きくため息をついた。  宵娯の母親の存在があったために、父親は家庭を顧みずに研究に没頭してしまい、結果として家庭崩壊につながったのも事実ではある。そして、そのせいか侑惺自身がトラウマを抱えてしまうようになったのもまた本当のことだが、もうそれは過去のことだ。  だが、侑惺はそうであっても母はまだ違うのだろう。せめて父親が塀の外に出てくれて話をしてくれれば、また違ってくるのだろうが、それもまだ先の話だ。母とももう少し話し合いをするべきかもしれない。 「母さん、その話は後でいくらでも聞くから、今は宵娯のことだよ」 「……ええ、そうね。ごめんなさい。でも、私はこうなることをどこかで予想していたわ。侑惺、今さら私が母親面して言うのもおかしいかもしれないけど、どうしても辛くなったら身を引くのも一つの手よ」 「母さん、俺は絶対にそんなことしないから。宵娯を死なせないために生かす方法をなんとしてでも見つけたいんだ。考えたくもないけど、俺は、たとえ宵娯が助からなかったとしても、最期の瞬間まで傍を離れるつもりはないよ。絶対に」 「侑惺……」 「母さんが宵娯のお母さんや宵娯のことを好きになれなくても構わない。俺は、宵娯が誰よりも大事だから」 「………」 「母さん、後で文句はいくらでも聞く。だから、一つだけお願いがあるんだ。宵娯を助ける方法を少しでも知っていたら教えてくれないか」  電話越しに頭を下げて頼んだが、溜息と共に返ってきた言葉は。 「……何も知らないわ」 「本当に?父さんからは、何も……」 「知るわけないでしょ。あの人は何も教えてくれなかったわ。ただうわ言みたいに、さくら、さくらと言うだけで。研究をしているというのはなんとなく知っていたけれど、まさか捕まるような危ないことだったなんて。あの女のためにそこまで……っ」  嫌なことを思い出したのだろう。母は少しヒステリック気味にそう言うと、少しばかり冷静さを取り戻しながら続けた。 「ごめんなさい。やっぱりこの話は無理だわ。侑惺が宵娯君のことを助けたいなら、そうすればいいし、傍にいたいというのなら、勝手にしてちょうだい。これ以上口を出すつもりもないわ。でも、私はこの件に関して協力できないわ。どっちにしろ、知っていることはないとだけ伝えておくけど。じゃあ」  そして、一方的に電話を切られた。やはり母に頼むのは間違いだったようだと落胆し、途方に暮れる。  あとは塀の中にいる自分たちの父親や、研究員たちに聞くことが唯一の情報源だが、そう頻繁にやり取りできるものではない。それができなければ図書館で探すしかないだろう。  しかし櫻人を生かす方法など、研究員たちも長年を費やして研究してきた内容のはずだが、果たして有力な方法は見つかっているのだろうか。  人を長生きさせる力が櫻人にはあると聞いていたが、櫻人を長生きさせる方法については何も聞いていない。彼らのやり方がいかに人道から外れたことだったかは別にしても、ろくな結果を得られなかったがために牢に入る羽目になったのだとも思えた。 「宵娯……」  愛しいその名を呟き、全てを諦めてしまったかのようなあの顔つきを思い出して胸が痛んだ。再び深い悲しみに囚われかけたその時、声をかけられた。 「もしかして、あなたは清水侑惺君?」  振り返ると、柔和な顔立ちの桜庭夫婦が心配そうな顔立ちをして立っていた。 「宵娯には、もう会われたんですか?」 「ええ、つい今しがたね。聞けば、侑惺君もさっきまでいたということだったから……」 「そうですか。あの、宵娯のことはもう」  皆まで言わなくても言いたいことを察してくれたのか、夫婦は顔を見合わせて肩を落とした。そして、今度は宵娯の義父の方が口を開いた。 「清水君、君も辛いだろうが、残りの時間をどうか大事にしてやってほしい。宵娯もそれを望んでいるだろう」  夫婦も共に宵娯と同じように諦める気持ちが強いようだった。それに引きずられてしまいそうになりながらも、必死で抗おうとした。 「桜庭さん、でも、俺はまだ諦めるつもりはありません。宵娯を生かす方法を何かご存知であれば、どうか教えてください」 「生かす方法って、それは……」 「櫻人について何かご存知ではないですか。宵娯は半分ですが、その血を引いているので、そのせいでこんな状態になってしまったとしか思えないんです。お願いします。何か少しでもご存知であれば教えてください」  必死になって何度も頼み込み、頭を下げたが、夫婦は共に首を振った。 「いや、私たちは名前こそ知っていたが、研究に関しては全て秘密にされていたので、何も聞かされていないんだ。知っていればなんとかできたかもしれないんだが」 「そんな……」  希望が潰えてしまい、絶望が押し寄せてきた。あとは本当に、塀の中にいる彼らに協力を求めるか、自力でどうにか調べるしかないのだ。3カ月あればいい方だが、1か月やそこらで一体何ができるのだろう。 「清水君、息子のためにありがとう。私たちも景綱と連絡を取ってみたり、できることはしてみる。君のおかげで目が覚めたよ。だから、気をしっかり持ってくれ」 「はい……」  しかし、塀の中にいる彼らから得られた情報は、結局、 「櫻人の研究は何年かけても謎が深まるばかりで、もはや人の手では限界を感じ始めていた。人体実験にまで手を染めてしまったのは、そこまでしなければならないほど追い詰められていたからだった。あとは櫻人の血に人を長生きさせる力があるが、櫻人そのものは今のところ長生きさせる方法は見つかっていない。それが可能になれば、実験はもっと容易く進めることができたかもしれない。ちなみに人を長生きさせる方法についてだが、そちらも何か人知の及ばない力が関与しているのか、血液を使ったいかなる実験も成果を見出すことはできなかった」  とういことだった。人知の及ばない力というものが何を指しているのか分からないが、ふと櫻人の起源の逸話を思い出した。もしあの逸話が本物だったとして、人に神の力を操ることなど到底叶わない。神に会うことさえできるはずがない。  とうとうお手上げ状態になってしまった。

ともだちにシェアしよう!