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3 謎の男と神降りの儀式
宵娯と考えの相違で気まずいままだった上に、なかなか成果が得られないでやきもきしたり落ち込んだりする中、日々は淡々と流れた。いくら焦りを募らせたところで、時間は待ってくれない。喧嘩などしている場合ではないと、宵娯の病室には毎日のように通い詰めた。
そして、いよいよ入学式が翌日に迫ったその日、静かな病室で眠る宵娯を眺めていた。
昨晩は全身に激痛を覚えて眠れなかったらしく、長いまつ毛に縁どられた目元にうっすらと隈ができている。そして、まともな食事も取ることができなくなったのか、少し痩せてきているように見えた。
眠りを妨げないよう、そっと宵娯の手を取り、祈りを込めて口付ける。
「どうか、宵娯がよくなりますように」
眠っている時の反射的な動きかもしれないが、宵娯の手がぴくりと動いて、僅かに握り返された気がした。そのことに安堵しながら、宵娯の頬を撫でようと片手を伸ばしかけた時だった。
ふいに、病室の戸をノックする音がした。看護師か誰かが来たのだと思い、宵娯の手を握ったまま返事をすると。
「失礼」
それだけ言って入って来た男は、一目で異様だと感じた。大きなマスクで顔の半分を覆い、目には完全に外側から見えない真っ黒なサングラスをかけている。服装そのものにおかしなところはないが、顔を隠しているそれらの存在が際立っており、まさに変質者そのものだ。
「あんた、誰だ。病室を間違えているんじゃないか」
警戒心を露わにしながら、宵娯を背に守るように立つ。すると男は、マスクでくぐもった声を発した。
「いいえ、間違っていません。ちゃんとネームプレートも確認しましたから」
「宵娯に何の用なんだ。少しでも変なことをしてみろ。警察を呼ぶから」
「呼びたければ勝手にすればいいでしょう。その代わり、彼が助かる見込みも一生望めなくなりますよ」
それはどういう意味なのか問いかけようとした時、侑惺の背後から声が上がった。
「侑惺、取り敢えず話を聞いてみよう。追い出すのはそれからでも遅くはない」
はっとして振り返ると、宵娯は微かに青白い顔で微笑み、頷いた。それを見て、不安に感じながらも宵娯の判断に従うことにして、引き下がる。
すると男はずかずかと病室を横切り、宵娯のベッドに近付いていったかと思うと、いきなり宵娯の手を両手で掴んだ。
「なっ」
この男もまた宵娯の色気に当てられたのかと慌てたが、今度は男が突然すすり泣き始めたので別の種類の動揺が走った。
戸惑いながら宵娯の方を見ると、困ったようにしながらも穏やかに男を見つめている。もともと宵娯は来るもの拒まずの博愛主義的なところがあるので、この男に対しても嫌悪感など感じたりしないのだろうと想像し、苦い思いが込み上げた。
しかし、男が宵娯に縋るようにしながら発した言葉は、予想外の内容だった。
「あなたは桜の精の末裔なのです。お願いです。どうかお亡くなりになられる前に、神降ろしの儀式をさせて下さい。あなたが最後の望みなのです」
「あんた、突然何を言ってるんだ」
男に食って掛かり、宵娯から引き剥がそうとすると、宥めすかされた。
「まあまあ、侑惺。彼の話を詳しく聞いてみよう」
「宵娯、でもこんな怪しい人を信用していいのか」
「俺は諦めていたが、侑惺が必死なのを見て考えを改めたんだ。もし望みがあるのならば、どんなことでもしてみたい」
「宵娯、でも」
不安な気持ちと嬉しくなる気持ちがせめぎ合い、言葉に詰まっていると。それを遮るように男が語り始めた。
「私は生粋の櫻人の唯一の生き残りなのです。そのため、私もあなたと同じように寿命があと僅かしかなく、どうにか短命の呪いを解けないかと躍起になって探しました。その最中に、櫻人の起源と言われている神々の話に行き当たり、桜の精の存在を知りました。この話は、あなたたちもご存知でしょうか」
宵娯と顔を見合わせて頷くと、男は続けた。
「ちなみに、あなたがなぜ桜の精の末裔と言うのかというと、私たちはどこかで血縁関係があるのは確かですが、数多くいる櫻人の中でも一際群を抜いて美しい人物というのが、本当の意味での桜の精の末裔なのです。いえ、末裔という言い方は正しくないかもしれません。先祖返りと言いますか、生まれ変わりと言いますか、はっきりとしたことは分かりませんが、それに近い存在なのです。ですから、そんな存在のあなたならば、きっと神降ろしの儀式を行い、神に直接短命の呪いを解いてもらうよう交渉ができるはずだと考えたのです」
途方もなく現実的ではない話だった。そもそも櫻人という存在も既に現実味がないのだが、神降ろしというのは更にその上を行く。
そんなことをして、本当に宵娯の身は助かるのだろうか。むしろ、その儀式を行ったことで尚更体に負担を強いてしまい、命の灯を早く消してしまいかねないだろうか。
しかし、そんな不安を抱える侑惺を置いて、宵娯は表情を明るくした。
「それをすれば助かるかもしれないんだな」
「ええ、恐らくこれが最も有力な方法かと」
「では、早速取りかかろう。時間が惜しい」
「えっ、ちょっと宵娯」
「なんだ」
「そんな危ないことやめておこうよ。他にもっと安全な方法があるかもしれないし」
なんとか引き留めようとしたのだが、宵娯は首を振った。
「侑惺も散々探してくれたんだろ。今度は俺が何とかする番だ。それに、本当に神様に頼めるならそれに越したことはないしな」
「宵娯……」
「それでは早速、神降りの儀式と参りましょう。この病室でも広さは十分ですね。早速準備に取りかかりますので、少々お待ちを」
侑惺を置いてきぼりにして、男は話を進めてしまい、宵娯もやけにやる気な様子でその準備を見つめていた。嫌な予感が胸に沸き起こりつつも、うまく説得する言葉も思いつかずにいるうちに、あっという間に準備は完了してしまったらしい。
病室だということで、男も遠慮したのかもしれないが、魔法陣やら何やら怪しげなものは一切なく、盛り塩と持ってきていたらしい日本酒と柏手のようなものを用意していた。もっと大掛かりな準備が必要とばかり思っていただけに、少しばかり拍子抜けした。
本当にこれで儀式などできるのだろうかと疑いながら、儀式が本当にできてしまっても困るのだから失敗しても構わないかと思いながら見守ることにした。
男が何やら宵娯に目を閉じさせ、彼の額に手を置きながら呪文のようなものを唱え始める。その聞き慣れない念仏が一通り終わった瞬間だった。
突然、宵娯がかっと目を見開き、剣が差した瞳でがばりと身を起こした。まるで別人のような顔つきだ。
「とうとう我を呼び出したな。貴様の所業は全て知っている。今もまた、こやつらを騙すために我を呼んだんだろう」
宵娯は低く威厳のある声音でそう言うと、男を睨みつけた。
「そんな、滅相もない。私は短命の呪いを解きたかったがために、いろいろと全力を尽くしたまででして……」
「呪いを解きたいからと言って、同意もなしに数少ない櫻人の生き血を啜り、そればかりか残虐な仕打ちをしていいことにはならない。貴様の今のその姿も我の施した罰だというのに、まだその過ちに気付かぬか」
そう言って、宵娯――否、神がぱちんと指を鳴らすと、まるで魔法のように男の顔を覆っていたマスクやサングラスがあっという間に剥がれ落ちた。そして、その下から現れた見るのも躊躇われる醜い顔立ちに、思わず侑惺は呻いて目を逸らす。
すると、それに気が付いた男の矛先が侑惺に向かった。
「あなた、今目を逸らしましたね。私だって好きでこんな顔になったんじゃないんですよ。あなたの顔も同じようにしてあげましょうか」
そして、世にも恐ろしい形相の男が、侑惺に襲い掛かってこようとしたのだが。
「止まれ」
宵娯の姿をした神が命じると、男の体はぴたりと動きを止めた。純粋に神の命令に従ったというよりも、従わされたようだ。男は神を睨みつけている。
「まだ分からぬか。貴様は我の手で直々に息の根を止めてやるしかなさそうだな」
神が再び指を鳴らすと、男はもがき苦しみ始め、聞くに堪えない苦悶の声を出し始める。宵娯の姿をした神は、それを無表情に眺めていた。
いくら中身が神に成り代わっているとは言え、見た目は宵娯だ。自分の愛しい恋人に人殺しはさせたくないと考えた侑惺は、咄嗟に神にしがみつき、叫んだ。
「やめて!」
その瞬間だった。侑惺の体から見えない何かが放たれ、男を苦しめていた力に反発する力が加わったようだ。そのため、いつの間にか病室に満ちていた苦悶の声が収まっていく。
「これは……」
神は侑惺を振り返り、驚きに目を見開く。何が起こったのかまだ分からない侑惺に対し、神は何かを察したように口元を緩めた。
「そうか、そなたとこの宵娯という男は……そうか……」
どこか嬉しそうに何度も頷くと、神は片手を上げて男に向けて光を放つ。すると、男の姿はみるみるうちに変わっていき、美しい青年の姿になった。
「そなたたちにも、祝福を授けよう。これからも共に長い人生の旅路を生きるといい」
祝福の意味も、神がなぜ突然考えを変えたのかも分からないまま、侑惺と宵娯の体は眩い光に包まれる。光の粒子が桜の花びらの形となって二人の上に降り積もったのを確かに見た気がした。
その光が収まった時、宵娯は穏やかな顔つきに戻って目を開いた。元の彼に戻ったようだ。
「宵娯、今のは一体何だったのかな」
宵娯に近づきながら尋ねると、彼はふわりと侑惺を抱き締めながら言った。
「理由は神のみぞ知る。だが、短命の呪いとやらは解かれたみたいだ」
その言葉を聞いた途端、ぽろりと温かな涙が零れる。そして、桜の時期は終わったはずなのだが、どこからか舞い込んだ花びらが一枚、二人の足元に落ちていた。
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