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第90話 愛する人の部屋へ

『そんなに未練があるなら、三月先生と寄りを戻したらいいじゃないですか』  あのときの屋上での会話よりあと、沢井は黒崎と仕事以外で話していない。  黒崎に取り付く島もないという態度を示されているからだ。  だから、沢井は二人の休みが重なったとき、不意打ちの形で彼の部屋へ行き、強引に会ってでも話そうと思っていたのだ。  けれども、なかなか二人の休みは重ならず、それに加えて、黒崎は仕事がないときでも、勉強のため病院の資料室や図書室に籠ったりするので、機会が訪れないままだった。  ……それが、まさかこんな形であいつの部屋へ向かうことになるなんてな。  彼の住むマンションへタクシーで向かいながら、沢井の嫌な胸騒ぎは増すばかりだった。  黒崎……。  愛しい人の名前を心の中で呼んだとき、タクシーが彼のマンションへ着いた。  201という数字の横に、『黒崎』と几帳面な文字で書かれたプレートがかかっている。  沢井はその下にあるインターホンを押した。  部屋の中でインターホンの音が鳴り響いているのが、かすかに聞こえたが、しばらく待っても応答はなかった。  いない? でも……。  沢井の手が無意識にドアノブに伸びる。  ゆっくりと回してみると、ドアはガチャリという音とともに外側に開いた。  鍵がかかっていなかったことに、沢井の不安が頂点に達する。  部屋の中は電気もついておらず、真っ暗だったが、沢井が大きくドアを開けると、外からの光が室内をぼんやりと照らし出した。  

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