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プロローグ 2 (終)
欲しいと口にする前に、差し出されることに慣れた男が見せた子供じみた欲求は、得難いものだ。だからこそ、その生徒は省吾の声に首を回 らせ、視線を追い、そこで目にしたものに納得し、くっと笑った。
「気に入ったのか?」
幼い頃からよく知るその生徒は藤野誠司 、省吾の母親の年の離れた兄の息子だった。その母方の伯父には得体の知れないところがある。下層の出を少しも隠さないところは立派だが、それが本質とは言い難い。それでも省吾の祖父の剛造 に見出され、手腕を買われて、この地域全般の遊興施設を経営管理する会社の代表に納まっている。誠司はその伯父の一人息子で、省吾にとっても、ただ一人の従兄弟だった。
伯父は常日頃から何かにつけて剛造に呼び付けられているが、三つ違いの弟の優希 が生まれた日も、屋敷に呼ばれ、祝いの挨拶もそこそこに、省吾を預かるよう命じられていた。古い家に有りがちな因習を理由に、剛造の身勝手な思い込みで、省吾は家から追い出されたことになる。伯父も内心では剛造の思い込みを馬鹿にしていたが、何も言わず、ただ静かに幼い省吾の手を取り、藤野の家に連れ帰った。その日から弟の優希は他人となり、同い年の従兄弟が兄弟となった。高校三年生になった今も、家族とは名ばかりで、殆ど顔を合わせることはない。省吾が蜂谷の家よりも、藤野の家を家族と感じるのは当然だった。
誠司はまるで守護者のように、どんな時にも側にいる。鬱陶しく感じることもあるが、省吾に対してとことん甘い従兄弟を嫌えるはずはなかった。
「……なら、誘い出してやろうか?」
誠司の心得たような声が背後から響く。誠司は体を省吾に寄せて、片腕で囲うように手のひらをドアの横の壁に付ける。すると、それまで誠司と話していた仲間が二人の邪魔をしないよう、さりげなく扇状に散らばった。言葉にしないでも、それを誠司が指示したことは、筋肉の張りが透かし見える力強さで伝えられている。
自然と備わる厳つさが人を威嚇すると、誠司に気付かせたのは省吾だった。隆々とした体から発するその熱で、省吾に近付こうとする者達を追い払っているうちに気付いたようだ。誠司が側にいる限り、許された者しか省吾に近付くことは出来なかった。
稀に見る美貌を見逃したのも、誠司の過保護が招いたこと、そうでなければ、あれ程の見目麗しさが目に留まらない訳がない。誠司は列車に乗り込んで来る生徒だけでなく、省吾の逞しくもしなやかな美丈夫さに魅了される者達全てが送る秋波を、省吾よりやや上背のある魁偉 な背中で遮っていた。
省吾の物柔らかな口調と貴公子然とした清廉な仕草に惑わされ、憧れを抱く者達の思いがいかに的外れであるかを理解する誠司の戯れでしかないのだが、それも省吾には可愛く映る。どちらがどちらを守っているのか、微妙なところだが、からかい気味に話を繋げる誠司を微笑ましく思うのは止められなかった。
「オヤジの持ち物で、ちょうどいい具合に新調したばかりの部屋がある……」
親の仕事の関係で、こうした遊びには不自由しない。それどころか、やり手と言われる父親顔負けに、学園の生徒を相手にかなりいい商売をしていた。「鼻持ちならないクソ野郎の弱みを握る」という誠司なりの理屈が、いかがわしさを嫌う『鳳盟学園』に認められるはずがないのだが、放校処分にされないのは、多額の寄付金と剛造の口添えがあるからだった。そうした権威を前にしても、とかく噂のある稼業は見下されるものだ。誠司が表面上は誰とでも親しくしても、限られた仲間としかつるまないのは、金持ちという点からは決して勝てないとわかった上での陰口に、喧嘩を売る程の馬鹿ではないからだった。
「うぅん、どうしようか、アレにはそんな真っ新 な部屋は似合わないしな。アレに似合うのは、やり捨てたあとの饐 えた臭いの残る部屋、そんな気がする」
気品のある見た目通り、刹那的な楽しみに際しても、大概は相手に心地よい夢を見させる省吾が、侮蔑の言葉をあからさまに言い放ったことに、誠司が心底驚いている。
「省吾、おまえ、アレが誰か、知っているのか?」
「いや、誰?」
「香月 のところの孫さ。一人娘が夫婦ともども事故死して、仕方なしに爺さんが引き取ったっていう孫だよ。男と駆け落ちした娘に子供がいたなんてのは、爺さん以外、誰も知らなかったって話だ。香月家は、元はこの辺り一帯の領主だからな、先月の事故からずっと、親戚面した奴らがもう大騒ぎさ。香月の直系は駆け落ちした娘で血筋が途絶えたと思われていたからな。施設育ちの卑しい男の子供に、跡を継がせるつもりなのかと、騒ぎまくったらしい。そんなこんなで始業式には間に合わなかった。学園に通い出したのも一昨日 からさ」
「それなら、名前は香月?」
「違う、父親の籍から動かしていない。篠原さ、篠原葵 。香月の爺さんが名前は継がせないと決めたからな。それでも香月の財産はアレのところへ行く、だから騒いでいるのさ。これ全部、オヤジの受け売りだけどな」
「そう?伯父さんが気にしているんだ?それなら尚更かな。俺と違って、育ちの良さそうなアレがどう出るか、伯父さんも楽しみだろうからね」
省吾の言葉が嫌みであることと、そこに腹立ちが込められていることに、誠司がはっとしたその時、発車のベルが鳴る。
「おまえは何もするなよ」
壁に伸ばした片腕で、省吾を囲い込んだつもりの誠司を尻目に、ドアが閉まる直前、隙間をするりと通り抜け、独りホームに降り立った。省吾はドアの向こうから誠司が喚いているのを背中で聞く。誠司は拳を打ち付け、ふざけるなと叫んでいる。その勢いにドアがへこんだのは確かだろうが、それがどうだというのか。子守がいては邪魔なだけだ。美貌に動く気配がないのなら、走り出す列車に用はない。
省吾は肩に掛けるスクールバッグを軽く背中に押し遣り、ズボンのポケットに片手を突っ込む。期待に綻ぶ口元を意識し、ホーム中央の柱に向かって歩き出した。
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