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第一部 1-1

 あの日、両親は誰に会いに行ったのだろう。事故以来、ずっと考えているが、葵にはどうしても出せない答えだった。  あの日の朝早く、両親は昔の知り合いに会いに行くと言って、父親の愛車である中古の軽トラックに二人で乗り込んだ。中古とはいえ、去年手に入れたばかりの軽トラックで出掛けるのは、葵にも楽しみなことだった。それなのに、何処へ誰に会いに行くのかと尋ねても、帰って来たらきちんと話すと言われただけで、はっきりしたことは何も教えられていない。一晩泊まることになるかもしれないが、食事の世話は村長に頼んであると言って、はぐらかされてしまった。一人で留守番させられることに不貞腐(ふてくさ)れていた葵は、明日は日曜だから友達と―――幼馴染の(さとし)と一晩中ゲームをすると、膨れっ面で答えていた。両親は程々にするよう親らしい注意をしても、駄目だとは言わずに、宥めるような笑顔を見せ、窓越しに手を振って出掛けて行った。  結局、両親は帰って来なかった。何処へ誰に会いに行くつもりだったのかも、わからずじまいだった。  両親が乗る軽トラックが高速道路に入って暫くすると、突然大型トラックが前に割り込み、そのままバックを始め、後ろを走っていた両親の軽トラックに突っ込んで来たのだという。居眠り運転の末の事故と説明されたが、ハンドルを切る間もないと判断した父親が取った行動は、即座にシートベルトを外し、その身で母親を庇うことだった。父親は即死だったが、母親は病院に運ばれてからも少しのあいだ息があった。  知らせを受けたあと、頭が混乱して何もわからず、村の大人達に促されるままに病院へ向かった。母親は葵が着くのを待っていたかのように、苦しい息のもと、最期の時にこう言った。 〝ごめんね、葵……〟  その後のことはよく覚えていない。祖父の代理人という男が病院に来て、村の大人達の抗議を無視し、全ての手続きを処理し終えると、葵を車に乗せて出発した。ただ一つ記憶に残るのは、幼馴染の叫び声だった。葵を心配し、大人達と一緒に病院に来ていた聡の声が、今も耳に残っている。 〝帰って来るだろ!高校、一緒のところに行くと約束したもんな!〟  その声が耳に響いた気がして、ふと意識がはっきりしたあの時、葵は聡の顔を探すように視線を上げた。そこに聡の顔はなかった。祭壇に飾られた両親の遺影と共に、読経が響くこぢんまりとしたホールで、祖父と称した初老の男、香月尚嗣(こうつきなおつぐ)の隣におとなしく座る他人のような自分の姿しかなかった。  葬儀は身内だけで質素に執り行うはずだったが、香月の名前に集まった遠縁の者達で狭い部屋は一杯になっていた。彼らが押し掛けて来たことで、父親についてのろくでもない噂話が野火のように広がるのを見せられることになった。  妻に先立たれて男手一つで大切に育てた娘を奪った男、金目当てに世間知らずの令嬢を言葉巧みに騙した男、金の無心に失敗して娘を(さら)って逃げた男、それが父親だと、彼らは話していた。 〝……逃げる前は?……生まれは?……何をしていた?〟 〝施設育ち?……借金?騙されて?……美貌を売りに?〟 〝……モデル?違う?……ストリッパー?〟 〝それで?……囲われ者に?誰の?……ええっ、それって……〟  聞こえよがしに噂し合う声が、読経の最中(さなか)に綿々と響いていた。  葵は彼らに向かって言い返したかった。父親はそんな男ではないと、怒鳴り付けたかった。しかし、両親共に身寄りがないと聞かされていたのに、母親には尚嗣という父親がいた。山間(やまあい)の村で贅沢とは無縁な暮らしをしていたのに、香月という資産家の一人娘でもあった。葵には何が本当で何が嘘なのかが、わからなくなっていた。ただ悔しくて、涙がこぼれそうになった。その時、尚嗣が視線を前に定めたままで葵に言った。 〝涙を見せるな。付け込まれるぞ。恵理子(えりこ)の恥になる〟  葵は母親の名前にびくっとし、噂話に耳を塞ぎ、涙を押し戻した。尚嗣の言葉に、両親の死に泣くことは許されないのだと痛感させられた。  村で暮らしていた時の両親は、本当に仲が良かった。いつも二人でクスクス子供のように笑い合い、暇さえあれば、人前でも平気で唇を軽く合わせていた。葵もだが、村の大人達も呆れ果て、いい加減にしろと言っては、芝居がかった手付きで、笑いながら二人を引き離していた。それが事故の一週間程前、学校から帰って来ると、辺りを(はばか)るような低い声で、二人が静かに言い争っていたのを聞き付けた。葵は初めてのことに驚き、つい身を隠して立ち聞きしてしまった。 〝恵理子さん!会いたいと言ってくれたんだ!行くべきだよ!〟 〝でも、きっと、あの人が亜樹(あき)君を!だから、いや、絶対に行かない!〟  両親は決してお互いを呼び捨てにしたことはなかった。特に父親が母親より一つ年下のせいか、さん付けで名前を呼ぶ時、崇めるような響きを伴わせていた。 〝俺は大丈夫だから。恵理子さんが俺をこんなにも幸せにしてくれたこと、わかってもらいたい〟 〝違う!亜樹君が私を救ってくれたの、鬼に……〟  そこで父親が、それ以上何も言わせないように母親を胸に抱き寄せていた。  鬼とはどういうことだったのだろう。人なのか場所なのか、状況なのか、何もわからないという不安だけを胸に残して、葵はその場を離れていた。  この町に来るまでは、両親が駆け落ちしていたとは知らず、身寄りのない二人が新天地を求めて、村に流れ着いたのだと信じていた。聡の祖母が、葵と名付けた理由を話すついでに聞かせてくれたことでもある。 〝最初は胡散臭いと思ったもんよ。この村は畑仕事が出来なきゃ、どうにもならないからねぇ。亜樹はさ、今じゃ、見る影もないけど、当時は惚れ惚れするくらいに綺麗な顔をしていてね、あたしもうっとりさせられたもんさ。都会生まれのひ弱もんだったし、なんも出来なかった二人だったけど、本当によく働いてねぇ、段々と村の者達にも信用されたのさ。亜樹は恵理子の面倒を一生懸命見ててさ、微笑ましかったよ。だから、二年後に二人が結婚すると決めた時、村人総出で祝ってあげたもんさ。葵って名前もねぇ、お天道さんに顔向け出来る生き方をして欲しいって、そう言って二人で付けたんだよ〟  葵にとって生まれ故郷であるその村には、もう帰れない。幼馴染の聡とも、村の大人達とも、挨拶をせずに別れているが、正すことも出来ない。村の事は忘れて口にはしない。この町に住み、学園に通う。葵の矜持(きょうじ)が尚嗣と交わした約束を守らせている。  それでも一度だけ尚嗣に、村で穏やかに暮らしていた両親と会うつもりはあったのかと尋ねたことがある。尚嗣は不快な表情を見せたが、この先も会う予定はなかったと、厳しい声音で答えていた。 「それじぁ、誰に会いに出掛けたんだ。鬼ってなんなんだよ」  ホームに立ち、答えを知れない悔しさに、葵は苛立たしげに呟いていた。

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