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第一部 1-3

「あいつは……」  葵は言葉に詰まった。聡が男だと知った上での悪ふざけだとしても、この男と一緒にそれを笑い飛ばしたくはなかった。祖父の尚嗣が迎えに寄越した車に乗り込んだ時に聞いた聡の叫びが耳から離れず、葵の喉を締め付ける。 〝葵!帰って来るだろ!〟  嘘吐き、裏切り者、二度と会うことのない聡の叫ばれなかった言葉が、葵には聞こえた。 「あんたには関係ない」  葵は話を逸らす為に、わざとぶっきら棒に答えた。 「っていうか、あんた誰?っていうか、それ、うるさい」  この男がマナーモードにしていない理由が、それとなくわかる。スマホで遣り取りする機会が少ないからだろうが、理由がどうであれ、声を掛けられた時からずっと途切れることなく鳴り響いているスマホの着信音に、葵は救われた。男もそれ以上は追及しないことにしたのか、軽く頷いて、ブレザーの内ポケットに手を入れていた。 「ああ、すまない。あいつ、しつこくてね。放っておけば諦めるだろうと思ったんだが……」  諦めそうにもない音に、男は顔を(しか)めた。スマホを取り出し、画面に表示された名前に溜め息を漏らす。 「俺は蜂谷省吾、蜂谷でも、省吾でも、好きに呼んでくれて構わない」  そう言いながら蜂谷省吾と名乗った男が、仕方なさそうに画面に指を滑らせた。それと同時に、けたたましい怒鳴り声が人影(ひとかげ)もまばらになったホームに響き渡った。 「この!クソったれが!シカトしてんじゃねぇぞ!何が何もするなだ!クソ腹の立つ!俺にやらせねぇつもりか!てめぇこそ!さっさとこねぇと!ケツの皮ぁ、ひん剥いて、ヒィヒィ言わせてやんっ……」  そこで省吾は電話を切った。そのまま電源も切ってしまう。スマホをポケットに戻す時には、非の打ちどころのない綺麗な顔にばつの悪さが浮かび、洗練された物腰がかえって滑稽に見える。それが葵の笑いを誘った。笑い声は次第に大きくなり、腹を抱える程にまでなって行く。 「あんた、おかしいよ。っていうか、おかしいのは友達の方か?」 「普段はさっきのような喋り方はしない奴なんだ。余程、俺に腹を立てたらしいな。だけど、俺にしたら、あいつくらい可愛い男はいないけどね」 「へぇ、そいつ、可愛いんだ。口の悪さは最高だけどな」  何も考えずに、ただおかしいから笑う葵の笑顔は明るく眩しいものだった。それが普通であった頃の幸せな日々が、ほんの束の間、葵の心に蘇る。笑いは葵を無防備にした。それも一瞬のことだ。ホームに列車の到着がアナウンスされると、ぎくりとし、現実に立ち戻る。葵はすっと表情を引き締め、省吾を回り込んで乗り場へと足を向けていた。その突然の変貌が、省吾の関心を引くとは思わなかった。 「どこへ行く?」 「次の列車で学園へ行くのさ」 「学園に行くつもりなら、どうして前のに乗らなかった?あれじゃないと遅刻するぞ。次のでも、駅から全速力で走れば、なんとかなるかもしれないけどね。だけど、そこまでする必要はないだろう?」 「遅刻なんて、どうってことないし、走るのだって平気だ。学園のクソ集団と同じ列車に乗りたくなかっただけさ。あの中に、編入初日から俺の顔にやたら絡んで来るのがいたからな」 「そう?なら、俺が近付くまでは、サボろうと思っていた?とか?」  省吾が長い足をのんびりと動かし、邪魔臭いくらいに葵の背後から声を掛け続けている。葵も相手をしてしまう自分が馬鹿だとは思うが、何故だか無視出来ないでいた。 「それをあんたが言うのか?ここにいるあんたが?それに俺は(はな)からサボるつもりなんてない。あんたがどうかは知らないけどな」 「俺?」  自分がどこにいて、何をしているかに初めて気付いたかのような驚きで省吾が言う。それでいて考えなしの行動を恥じ入る風もなく、葵が問い掛けてもいないことに楽しげに答えていた。 「そうだなぁ、なんか面倒になったし、このままサボろうかな。そうだ、おまえもどう?俺に付き合わない?」 「……ったく」  葵は乗り場へ向かってすたすたと歩いていた足を止め、くるりと振り向いた。不意のことで少しだけ戸惑いを見せた省吾だが、澄ました顔付きで再度問い掛けている。 「どう?来る?」  葵は省吾の邪気のない爽やかな笑顔に、むかついてならなかった。何もかも当然という省吾の顔が憎らしいまでに整っているのが、苛立ちにも拍車を掛ける。 「あんた、なんなんだよ。さっきから、身長がどうの、声がどうのと、それで一緒に来いだと?バカ言ってんじゃねぇぞ」 「おまえ、篠原葵だろ?香月の孫の?」  省吾は葵に名乗っているが、葵は省吾に名乗っていない。それなのに葵の名前も、祖父が誰かも省吾は承知している。のらりくらりと話していたが、葵だから声を掛けたのだと、自ら認めたようなものだと気付かされる。葵はこの男の胡散臭さは本物で、何を思って近付いたのかを考えると不気味ではあったが、興味がそそられたのも否定出来なかった。

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