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第一部 1-4 (終)

「あんた、俺が誰かを知っていたんだな」 「ああ」  取り繕おうともせずに、事もなげに頷かれ、葵の方が面食らった。しかも本能を剥き出しにした動物的な匂いが、この時の省吾にはあった。葵は立ち居振る舞い全てが秀麗である男が見せた粗暴さに、気持ちが揺さぶられる。胡散臭いと感じながらも、省吾に惹かれるのが、自分でも理解し難いことに思えた。 「あんた、どうして俺を誘う?」 「一人でサボるのは寂しい……だろう?」  省吾が品のいい笑いを見せて、それが冗談であることを葵にわからせた。その優雅さでどれ程の人を魅了して来たのだろうか。余りに自然である為に、垣間見えた省吾の野性が確かなものかどうかも怪しみたくなる。 「あんた、本当は何が知りたいんだ?」 「わざと遅刻しても学園に行くのは、何故?」  その程度のことなら、教えたところで問題はない。葵が誰かを知った上で、省吾は声を掛けて来たのだから、内輪の話を聞かせても問題となりようがない。省吾の本心を知るにも、多少は相手をした方がいいのだろう。葵は平坦な口調で、さらりと答えていた。 「お爺さんと取引したのさ」 「取引?……ああ、そういうこと」  それだけで納得出来るのを不思議に思っていると、省吾が気を利かせるかのように言葉を繋げた。それが皮肉に聞こえたのは、曖昧な言い方をされたからなのかもしれない。 「なるほどねぇ、名前は継がせない……か、香月も……」  孫には甘い―――そう続けたように葵には聞こえた。省吾が唇を動かしただけで声に出さないでいる理由はわからないが、尚嗣が厳しい人であることは紛れもない事実だと葵は思っている。それが理由で、省吾が尚嗣をどう思おうが、聞かせるつもりのないことを問い質す気にはなれなかった。 「あんたは気にし過ぎだ」  葵は大したことではないという調子で話をする。 「田舎でのことは忘れて、この町に住んで、学園に通う、そう約束しただけだ。だけど、遅刻しないとは約束していない。少しぐらいの遅刻に、くどくど言わせない」 「それは香月が出した条件だろう?取引というものは互いに利益があるものだ。おまえの方はどんな条件を出したのか、気になるな」 「ふん、勝手に気にしていろよ」 「おまえが香月の孫であるのなら、俺と無関係とは言えないぞ。わかっている?」 「はぁ?そんなもん、俺にわかるかよ」 「すぐにわかるよ」  軽く言いながら、省吾はそこに毒気を匂わせた。優雅さと粗暴さが同居する男の(さが)によるものなのだろう。そこに惹き付けられるのは仕方のないことだ。そのせいで、省吾の言うことに耳を傾けない方がいい、これ以上のかかわりを持たない方がいいと、心のうちで騒ぎ立つ声に悩まされる。しかし、だからこそ、それが切っ掛けとなり、波紋を起こし、何かしらの答えを引き寄せてくれるかもしれない。それに葵には鬼のことがある。葵は事故の前の両親の言い争いを思い出し、この町で生まれ育った二人に何があったのかを知るには、省吾が切っ掛けとなりそうなことにも気付いていた。  この町に来てから、葵は自らの意志を強く意識するようになっていた。それで強くなれる気がしている。田舎ではやんちゃもしたし、何かにつけて強がったりもしたが、それさえ両親や周りの大人達に守られていたのだと、今なら理解出来ることだ。葵は両親を思い、その一歩を意志として、省吾とかかわることを自分に許した。 「葬式のあと、オヤジの骨だけ別にされた。香月の墓には入れられないからだそうだ。オヤジには身寄りがないから、そのままにしたら無縁仏にされてしまう。だけど、オヤジには俺がいる。だから、お爺さんに頼んだ。俺がオヤジの墓を建てるから、それまでのあいだ、ちゃんと寺で預かってもらえるようにと……」 「十五やそこらのガキには、どうすることも出来ないか……」  葵は答える代わりに俯いた。省吾がそれを不満に思ったとしても構わない。かかわるとしても、放っておいて欲しいこともある。ところが、尚嗣との取引を話していた時には、察しの良さそうなところを見せていたというのに、省吾は葵の顎に片手を伸ばし、指先で軽く持ち上げ、瞳を覗き込んで来た。そこに涙があると思ったのか、乾いた瞳に、おやと微かに目を見開く。葵が省吾のその指を顔を背けて振り払うと、省吾は何事もなかったかのように、ふわりとした口調で続けていた。 「どうする?その列車に乗るか、俺と来るか?」  それは省吾による誘いではなかった。強制など少しも思わせない柔らかな口調であっても、葵による選択を()いるものだった。  葵は到着した列車の開いたドアを眺めた。時間になり、発車のベルが鳴っても、省吾に言葉を返さないでいる。ドアが閉まり、列車が走り出したのを確かめてから、葵は答えた。 「お爺さんとの取引に、サボらないというのはない」 「おまえ、やっぱり、いいな」  そう言って、省吾が葵の首に腕を回し、嫌がる葵を引きずるようにして反対側の乗り場へと向かう。 「クソがっ、俺が逃げるとでも思ってんのか?あんたのカバンが当たって痛いんだよ、腕を外せって」 「気にするな」 「気にするのは、あんたの方だろ」  殴り掛かってでも抵抗する訳にも行かず、楽しそうに笑う省吾に、無様な格好のまま、狙ったように反対側に到着した列車に乗り込まされた。省吾自身の体臭なのか、省吾がつけているオーデコロンの匂いなのか、その勢いに煽られた微風に漂う仄かな芳香に鼻孔が(くすぐ)られる。葵は他人の匂いに刺激されたことに衝撃を受け、腑に落ちない奇妙な感情を追い遣るように、省吾に向かって顔を煩わしげに歪ませた。

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