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第一部 2-1

 通勤通学の時間帯が過ぎても、町の中心地に向かう列車の車内は込み合っている。座席に()きはなく、思い思いの場所に立つ乗客も、互いにぶつからない程度にしか隙間が取れていない。皆一応にスマホを片手に画面を見詰め、周囲には無関心だった。省吾に連れ出され、列車に飛び乗った形の葵の声が一際(ひときわ)大きく響いたのも、自分の世界に没頭する乗客で車内が静まり返っていたからだった。 「気にするのは、あんたの方だろ」  葵の首に腕を回し、引きずるようにして慌ただしく乗り込んだ省吾の楽しげな笑い声が、葵の苛立ちに覆い被さった。すると不思議なことに、乗客の目はそこに二人いると認めていたというのに、省吾にだけ引き寄せられている。  長身で、すらりと伸びた背丈に似合った秀麗な容姿、この町の上層階級に属することを表す『鳳盟学園』の制服、嫌みなまでに恵まれた組み合わせが、乗客達に憧憬の念を(いだ)かせる。そのすぐあとで、葵の美しさへと視線が集まり、彼らの驚きが空気中に(さざなみ)のように立ち広がって行く。それは囁き声となり、静かだった車内に甘さを含んだ(ささ)やかな熱をもたらすのだった。  乗客によって巻き起こされた異様な空気が、葵にも嗅ぎ取れたのだろう。葵は省吾の腕を憤然と振り払い、痛みを与えた省吾のスクールバッグも手荒に押し退け、周囲と隔たるかのように車内に背中を向けていた。 「二度と俺を、ガキみたいに引きずり回すんじゃねぇぞ」  葵が自分のスクールバッグを肩に掛け直し、省吾に八つ当たりするかのように凄味を利かせ、声を鋭く響かせる。省吾まで遠ざけるつもりがないとわかる目付きは、脅し掛けるかのようにひやりとし、可愛げのないものだった。 「確かにおまえはガキじゃない。ありがたいことにな」  省吾は葵の横顔に顔を近付け、耳元に低く声を返した。葵がそれに反応し、首だけ回し、斜め上を向くように振り返った。猜疑心に満ちた眼差しを投げ、省吾の言葉を少しも信じていないことを伝えているが、それ以上は何も言わずに顔を戻し、ドアの窓から望める風景に目を向けていた。  省吾はドア近くの座席のポールにもたれて、葵の完璧と言える美しい横顔を心行くまで堪能した。額から鼻筋にかけて無駄のない見事なラインは滑らかで、やや突き出た唇はふっくらとし、うっすらと蜜に濡れたようにしっとりと艶めいている。何度も激しくキスをして、赤く腫れ上がらせてみたくなるような悩ましさに、葵が全く気付いていないことが、省吾を微笑ませた。()く息の熱が感じられる程に近付くことで気付かされる、薄茶色の虹彩が光の加減で金色にも変わり、完璧な美に彩りを添えていることにも、笑みが浮かぶ。  それでも、本来は色白だと思われる肌が、夏を前にして、既に淡く日焼けしていることには、多少の不満を感じていた。子供の頃に泥んこになって遊んでいたと話していたのを思えば、田舎暮らしによる弊害と言えるだろう。それも暫くすれば、本来の色に戻るはず。今の完璧さに付随し、大人へと成長するに従い、僅かに残る幼さを脱ぎ捨て、新たな美へと移ろい行く過程として楽しませるのであれば、そうした欠点も美点となる。  これは自分のものだ。生まれた瞬間にそう定められている。省吾ははっきりとそう感じながらも、何故だか、ままならない苛立ちも覚えた。誠司の父親、伯父の藤野正行(ふじのまさゆき)のせいだとわかっている。藤野に操られているように感じることが、省吾を苛立たせるのだった。  葵について、一月(ひとつき)も前から騒がれていたのを、誰も省吾には教えなかった。世間の噂を雑音として遮断してしまう省吾も悪いのだが、父親の受け売りと話していた誠司も、藤野の指示に逆らおうとはせずに、知っていながら黙っていた。省吾の視線の先に葵の姿を見届けた時に、くっと笑ったことで、その思いを気付かせようとしたのだろう。葵に関して、何も知らされていない状態で出会うよう、藤野に仕向けられたようで、腹立たしくてならなかった。  古い家に有り勝ちな因習―――祖父の剛造が妄信する習わしを、藤野が馬鹿にするように話してくれたことがある。馬鹿にしているからといって、信じていない訳ではない。むしろ剛造以上に確信していることだと、省吾は理解している。藤野には剛造とは違う認識があり、省吾が自らの意志で動く必要があると考えているだけのことだ。弟の優希がかかわる話でもあり、葵が現れ、現実味を帯びて来たのであれば、尚更、省吾に動いて欲しかったに違いない。  優希は『鳳盟学園』において、車での通学を許された特別待遇の生徒として、侵してはならない存在として君臨している。一般の生徒と一緒に列車で通うことで知る自由さを満喫出来ないことの方が、省吾には不幸に思えるのだが、生まれた時から蜂谷家の総領になるべく教育された優希には、特別であることが自我を保つのに大切なことになっている。足元の危うさに気付けない愚鈍さが増長されるばかりだと思うが、家族として暮らしたことのない弟がどうなろうが、省吾には興味のないことでもあった。  葵も篠原ではなく、香月であれば、優希と同様の待遇を受けていたのだろうか―――。そうした疑問が、ふと省吾の頭を(よぎ)った。  蜂谷の家を追い出された省吾のように列車で通学させるのは、香月を名乗らせなかったのと同じ理由からだろう。剛造の妄信から守る為に、香月の人間ではないと示したかっただけのようにも思える。こうして今、二人の時間が持てたのには感謝するが、その程度のことで、剛造の執着心をどうにか出来ると信じているのなら、お目出度いにも程がある。省吾が尚嗣を甘いと思うのも、中途半端な優しさで葵を守ろうとしたように思えたからだった。  蜂谷家の跡継ぎにとって、葵がどういう存在になる者か、優希は剛造から聞かされていると、省吾は思っている。葵の顔にやたら絡んで来る生徒がいるというのも、そこら辺りに理由があるはずだ。その生徒の行動は、優希が仕掛けた前触れと思って間違いない。そこは確かだと思うが、省吾が名乗った時、葵は蜂谷の名前に少しも動じなかった。たった二日とはいえ、学園内の序列を知れば、敏感になるものだが、葵には気にする素振りが全くなかった。  葵から見れば、優希は同級生の一人に過ぎないようだ。三学年で四人しかいない中学に通っていたという事実からして、違うクラスの生徒の名前にまで気が回らないだけかもしれないが、どちらにしても、葵の態度が不遜に映ったのは当然で、誇り高い優希には我慢ならないことだったろう。

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