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第一部 2-3

 尚嗣が屋敷を手放そうとしないのは、香月家がかつてこの辺り一帯を統治していた強大な領主であったからだろう。今は昔の話だが、そうした感傷が尚嗣にはあるのかもしれない。  香月家は確かに権力者として君臨していた。それを蜂谷家が陰日向になって支えていたのだが、千年にもわたる両家の関係を(しん)に繋ぐのが、剛造が妄信する因習だというのは、誰にも知られていないことだ。『血の契り』と呼ばれるその誓いは、直系のみに伝えられ、それこそが、この町を支配する本当の力だと信じられている。  『血の契り』には、夜伽目付(よとぎめつけ)という者がいたそうだが、役目を終えたあとは斬首を言い渡されていたというのだから、驚きとしか言いようがない。五代前の時代に廃止された役目だが、そうまでして秘密にしたがった誓いということでもあった。  尚嗣と剛造の代までは、両家共に男子一人しか子孫を残せないという言い伝え通りに、幾人の側室を得ようとも、嫡子より他に子を授かることはなかったという。それでも血筋が途絶えることなく繁栄し、激動の時代が巡ろうとも、難なく乗り越えられて来た。その時々の両家の嫡子がなした『血の契り』により与えられる恩恵だとして、半ば盲目的に信じられて来たことだ。それが香月家に女子が誕生し、長きにわたって行われていた習わしを続けることが不可能になった。  両家は話し合い、香月の娘と蜂谷の息子を(めあ)わせることで、『血の契り』を終焉させることにした。その縁組で、未来永劫、尽きることなく繁栄が約束されると結論付けたからだが、正式に婚約を発表した直後に、娘は男と逃げてしまった。  『血の契り』を知らない者達には、世間知らずの娘が起こした破廉恥な振る舞いでしかなかった。遠縁であることを誇る者達による非難が尚嗣へと集中する中、千年続いた主従の関係が、この時、逆転することになった。  駆け落ちというスキャンダルの陰で、ひっそりと省吾の父親と母親との結婚が進められていたことは、余り口にはされていない。既にこの時、母親の腹に省吾が宿っていようが、香月家の醜聞に比べれば、話題にする程のことではないと思われたからだ。母親の兄である藤野が下層の出であったとしても、剛造の後押しで事業に成功したあとでもあり、年の離れた妹にも地位に見合った教育を受けさせていたことで、体面にも傷が付かずに済んでいる。  その後、弟の優希が生まれると、剛造の身勝手な執着心に、省吾は蜂谷の家から追い払われることになった。香月家に生まれた女子でさえ、他に兄弟はなく、一人娘だ。母体が蜂谷家の名を受ける前に宿した男子を数に入れないという剛造の浅はかさが、省吾から家族を奪ったことになる。しかし、両親にしても弟にしても、省吾への関心は薄く、むしろそうした家族から自由になれたとも言えるのだった。  剛造は立場が逆転したことで、この町の繁栄の象徴である屋敷を何としても手に入れたくなったのだろう。尚嗣が頑として首を縦に振らないでいる為に、両家の因縁―――娘の駆け落ちが発端となって、互いに譲らないでいることでもある。  そこで省吾はふと改めて、葵の得も言われぬ美しさに目を遣り、老いてもなお、若かりし頃の美貌を思わせる尚嗣の男振りに思いを馳せた。『血の契り』は飾り物ではない。もしかすると、両家の因縁などではなく、全ては剛造と尚嗣の個人的な確執が原因なのかもしれない。葵を知り、省吾にはそう思えなくもないような気がした。 「ふふっ……」  省吾は喉を鳴らすかのような笑いを漏らし、意識を葵に戻した。何を話していたかを思い出すようにして、さり気なく言葉を繋げた。 「……暇潰しにコンビニか?他にも行くところくらい、あるだろう?森とか小川とか?」 「あんた、それ、俺の田舎をバカにしてるだろ」  葵が癇癪を起せば、その分、省吾の気持ちは上向く。省吾は会話が楽しめればいいと、葵に話の先を促した。葵が諦めたように話すのを、余裕の笑みで眺めていた。 「バカにされても仕方ないけどな。二年前の春に、聡んとこの店がコンビニ会社と契約して、初めて村に出来たんだしな。中央からの指導とか言っていたけど、どうだかな。聡の爺ちゃんが村長だからさ。聡んとこの店は村の悪ガキどもの溜まり場だったんだ。コンビニになったって、俺らにしたら、そこは変わらないからさ」  また聡か―――。いい加減、その名前にはうんざりさせられる。省吾の余裕も、名前しか知らない聡の度重(たびかさ)なる登場で、脆くも崩れ去った。 「スマホは?渡されただろ?」 「ああ、田舎の携帯がこっちじゃ使えないもんな」 「それで田舎には連絡しなかったのか?番号が変わろうが、おまえから知らせることは出来るよな?」 「俺は約束したことは守る」  尚嗣と取引したからには、隠れてどうこうするつもりはないと、葵は言いたいようだ。省吾にはその生真面目さが憎らしい。少しばかり、いじめたくなる。  省吾は葵に片手を伸ばし、妨げる突起が全くない、なめらかな頬に指を滑らせた。さらっとしていながらも吸い付くような肌を手のひらに感じ、はっとして身を引こうとする葵に構わず、顎の先を包み込むようにして掴み、顔をこちらに向かせる。 「俺とも何か約束する?」 「何を?」 「今日、誰とどこへ出掛けたかを秘密にする……なんていうのはどう?」 「はぁ?秘密にするようなことか?それ?」  葵が顎を掴む省吾の手を、虫でも払い落とすかのようにぴしりと叩く。その痛みに手を離し、わざとらしく顔を歪めた省吾にニヤリとし、馬鹿にするような口調で話を続けていた。 「それにさ、あんたはどうも信用出来ない。そんな奴と約束なんかするかっての」

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