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第一部 3-1

 正面出入り口とは反対側の出入り口は、省吾によると、俗に裏と呼ばれていたそうだ。そう呼ばれていたことさえ知らない住人が多くなったが、昔を知る者達は今も陰ではそう呼んでいるという。駅周辺の再開発が進み、交通の便を良くするようバスターミナルが整備され、スタイリッシュな街並みに変貌した現在からは想像も付かないが、昔はやさぐれ者がたむろする怪しげな場所で、如何(いかが)わしい店が軒を連ねる歓楽街だった。それも本当のところは、女子供を近寄らせない為の方便で、殆どはまともな店であったという。しかし、つい鼻の下を伸ばして裏路地にでも連れ込まれたなら、身ぐるみ剥がされても文句は言えなかったらしい。 「へぇ、そんな頃に来てみたかったな」  省吾の話に、葵はにんまりとし、ちょっとした観光というものに期待がいや増した。省吾も笑い返していたが、話の内容に似合わず、その顔付きは飽くまでも品がいい。 「女子供は絶対に近付くなと言われていたところだぞ。まず、無理だな。入り口で追い払われる」 「ガキってのは、抜け道、知ってるもんだろ?」 「好奇心には勝てないか?大人の男の遊び場だぞ」 「だからじゃないか」  省吾が確かにと頷き、そこでやっと、男同士の奇妙な連帯感にふっと笑った。  葵は昔話に思い描いた幻想から現実の洒落た店に目を移し、行き交う人達にも、同じように垢抜けた華やかさがあると思う。裏と呼ばれた頃にあっただろう強烈な個性は微塵も感じさせずに、誰も()もがすっきりとして爽やかだった。春の日差しに緩やかに揺れる街路樹の柔らかな木漏れ日にあるように、万人受けする穏やかさに満ちている。  正面出入り口側にしても同じことだ。巨大なデパートにしても、有名企業のオフィスが入る高層ビルにしても、安らかで悠々とし、上品な煌めきがそこかしこに溢れている。 「これの何が面白い?」  葵は不満げに呟いた。期待したこと全ては無理としても、名残くらいは覗けるものかと思っていたが、早朝から開店するガラス張りのオープンカフェから漂うコーヒーのかぐわしい香りに期待も打ち砕かれる。 「俺の田舎にだって、コーヒーくらい飲める店はある。じいちゃん、ばあちゃんの溜まり場になってる店だけどな」 「そう焦るな」  省吾は〝じいちゃん、ばあちゃんの溜まり場〟という葵の言葉に釣られたようで、少しだけ笑ってから続けた。 「お楽しみはもう少し先だ」  スクールバッグをロッカーに預けたことで、身軽になったせいか、ズボンのポケットに片手を入れて歩く省吾の姿は、モデル並みに軽やかで、途轍もなく魅力的だった。スタイリッシュな街並みが誰よりも似合う男だと言える。省吾は田舎育ちの葵には遠く及ばない華麗さを身にまとっていた。  ゆったりとしていながらも軽快な足取りの省吾には、秀逸な容姿に見るように、当然ながら裏と呼ばれた頃の匂いはしない。優雅さとは相容れない粗暴さを感じることが、おかしいのかもしれない。最初から警戒すべき相手だというのはわかっているが、それでも出会った時から、葵は省吾の中にある野性に、体の奥が揺さ振られる気がしてならなかった。  ロッカーのことにしても、葵もよく知る昔ながらのコインロッカーがすぐ隣に設置してあったのに、それに気付く前に、省吾にスクールバッグを取り上げられ、勝手に一緒に預けられてしまった。葵は暫くのあいだその場に立って思案していたが、散歩に出た飼い犬さながらに()かされ、このまま預けておくしかないと諦めさせられた。  ロッカー代を返すのは簡単なことだ。それよりスクールバッグを返してもらうには、省吾の許可を必要とするのが(しゃく)だった。胡散臭くて信用ならないと思う男に、頼まなければならないのが腹立たしい。そういった男と、こうして楽しめる自分に戸惑わされもする。  祖父の尚嗣と取引した時、村での事は口にしないと約束している。この町で両親に何があったのかを知りたいとは思うが、尚嗣自身が話したくなさそうだった。村でのことを話せば、尚嗣もこの町でのことを話さなくてはならない。それを嫌がったようだった。嘘を吐くより、何も話さない方がいい。尚嗣の態度には、そうした思いが(にじ)み出ていた。  葵は約束通り、両親に会うつもりがあったのかを尋ねた以外に、娘である母親のことも、家族でどういった暮らしをしていのかも、一度として尚嗣と話し合ったことはない。祖父との会話ですらそうなのだから、知り合いがいないこの町で、村での生活を話す機会はないと思っていた。それが省吾とは、この短時間のうちに気楽に話している。気を許すな、警戒しろと、自らを戒めながらもこの有様だった。  この男は何者なのだろう。声を掛けて来たこともだが、身なりの良さそのままの優雅さと、そこに隠す粗暴さに惹かれる理由がわからない。理由を知りたいのかどうかも、わからなかった。そう思いながら、ふと周囲に気持ちを向けると、景色が大きく変わっていることに気付いた。安穏とした街並みが途切れ、人の往来もなくなり、やけに静かになっている。視線を先へと移すと、道幅程度の細長い公園が視界に現れた。  公園には、中央に、意味不明な泥の塊のようなモニュメントが据えられている。きちんと刈り込まれた生け垣に沿ってベンチがあり、片隅に一台だけ自動販売機が置かれてある。掃除もされ、植木も手入れされているというのに、どこか(さび)れた雰囲気なのは、奇抜なデザインのモニュメントのせいなのだろうか。それとも、この公園を通り抜けた先に続く道路に漂う薄暗い空気に、そう思わせられているだけなのだろか―――。 「おまえの好奇心も、これで少しは満たされるかな」  不意に省吾が顎をしゃくって公園の先を指し示し、立ち止まらずに向こう側の道路へと行こうとする。それを葵は呼び止めた。 「なあ、そう急ぐこともないだろ?休んでいかないか?」  不思議そうな顔をして振り返った省吾に、葵はベンチを指したその指で、真向かいにある一台だけの自動販売機を指した。 「奢るよ、さっきのロッカー代のお返しさ」  葵は省吾の答えを待たずに自動販売機に向かった。珍しいことに、スマホに対応したものではなく、旧式のコインを入れるだけのものだった。 「へぇ、こういうの、この町にもまだあるんだ」 「無理だろ、コインがない」 「俺は持ってるぜ」 「えっ?」  裏返ったという程ではなかったが、省吾の声音は心からの驚きに掠れていた。目を丸くするとはよく言ったものだが、まさにそういう顔さえ見せている。落ち着き払った態度は相変わらずだが、ほんの少し余裕をなくしたようでもあった。そういった省吾に、葵の気分も弾んで行く。

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