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第一部 3-4 (終)

「それは相手によるな」  省吾は肯定も否定もしない言い方であっさりと答えていた。そのあとで、誘惑を思わせる艶美な笑顔で、少しだけ声の調子を高くして話を続けている。 「一つ助言しておこう。この町で暮らすのなら、薬には頼らない方がいい。処方されたものでも、安易に口にしない方がいい、忘れないことだ」  省吾に言われたからなのか、葵の中で忘れていた記憶が呼び覚まされた。  葵は生まれてこの方、定期予防接種以外の薬とは無縁だった。予防接種が効いていたのかどうかはわからないが、病気知らずの健康体で過ごしている。しかし、中学に入学して早々に、一度だけ、具合を悪くしたことがあった。  その時、村の診療所の医者に、〝鬼の霍乱(かくらん)だな、葵もやっと普通になったか〟と揶揄されたくらいに、軽い風邪で大したことはないと診断されたが、症状は悪くなるばかりだった。幾ら薬を飲んでも効果がなく、ついには熱に浮かされるまでに悪化した。医者はこのままでは肺炎を起こし兼ねないと、町の病院に移すことを決め、車の手配が必要だと村長に連絡するよう指示を出していた。父親が受話器を握り締め、半泣き声で伝えていたのを、葵は(おぼろ)げにだが記憶していた。 〝臍の下が……熱い、熱くてたまらない〟  確かにそう呻いたのも覚えている。痛い程の熱に我慢が出来ずに、Tシャツをスェットパンツから引き出し、腹をさらけ出した時、母親がはっと息を呑んだのを、霞む目に捉えたことも覚えている。 〝なんてこと……〟  母親が震える声でそう呟いたのも、耳に残っている。  その後は、そうした記憶が全て幻であったかのように、母親の落ち着き振りしか覚えていない。母親はてきぱきとした動きで、葵に薬を飲ませ、冷たいタオルで体を拭って新しい寝間着に着替えさせていた。そしてベッドに横たわる葵に覆い被さるようにして顔を近付け、葵の頬に頬を寄せて、耳元に優しく囁いていたのだった。 〝葵、大丈夫だから、今、あなたの中にある薬は、あなたの体を犯しはしない。あなたの意志が認めない限り、体は受け入れようとはしないの。だから認めてあげて。あなたが認めれば薬が効いて来るから、お願い、認めて〟  その瞬間、体がふわりと軽くなったのを覚えている。その時のことを、あとで医者はこう言っていた。〝姉さん女房は肝っ玉が据わっているねぇ。男はおろおろするばかりで、情けないもんだ〟―――と。そう医者に言われて、母親は少し照れたように笑っていた。葵もまた、あの日のことは熱が見せた幻だったのだと、母親の囁き声にも意味はないのだと、その時は思った。それが省吾の口から薬について聞かされると、幻が現実味を帯び、意味を持つように感じてしまう。 「覚えておく」  それが省吾に対しての答えなのか、母親の言葉への頷きなのか、はっきりしない気分で葵は言った。言いながらベンチから立ち上がり、自動販売機の横のゴミ箱へと歩いた。 「あんたのことは信用しないけど、その助言に嘘はなさそうだから」  ゴミ箱に空になったジュースのボトルを放り込む。 「そろそろ行こうぜ、あんたが面白いと言ったところへさ」  省吾が葵に答えるように、葵の横ぎりぎりに飲み終わったボトルを投げて、またも見事にゴミ箱に落としていた。当然、ゴミ箱には見向きもせずに、ベンチから立ち上がり、肩の先で葵を誘う仕草を見せ、裏と呼ばれた歓楽街の残り(かす)へと歩き出す。その表情には、仄かに厳しさが浮かんでいた。 「この通りの一区画だけ、駅の再開発から取り残されているんだ。ここで営業している店が立ち退かなくてね。土地の持ち主も無理に追い出すことをしなかった。それで再開発の企業組織がしたのが、この公園を作ること。通りの先の反対側にも同じものを作って囲い込んだんだよ。あの醜悪なモニュメントは、組織から委託された公園を管理する会社の嫌がらせさ」 「あの自販機……あんたの伯父さんが?」 「半分は正解。伯父はこの十年で、俺の祖父に頼まれて、店の方を一軒一軒手に入れて、潰して行った。元々が伯父の地元でもある訳だし、馴染みの者達だからね、伯父の顔色を窺ったさ。皆、開発計画で新しく作られた街に移って行った。それでも頑固に居続ける店もある。祖父の方は工期の遅れを気にしたらしいけど、伯父は立退料の上乗せより、嫌がらせをして自分の方から出て行かせた方がいいと説得した。時間が掛かっても、その方が土地の持ち主も早めに諦めるだろうと。実際は、それ程簡単でもないけどね。この場所だけ町の整備から取り残されて、社会からも隔絶してしまった。それでこんなにも殺風景で人気(ひとけ)のない通りになった」  車の出入りもなく、落書きだらけのシャッターが下りた道路の真ん中を、省吾は少しの迷いもなく進んで行く。 「というのは表向き。未だに残っているのは伯父とシンクロする奴らさ。あいつら、現金取り引きだし、中抜きし放題で、結構稼いでいるぞ」 「シンクロ?変な言い方だな。あんたの伯父さん、誰の味方をしてるんだ?」 「誰の味方もしていない。伯父は自分の利益の為に動く。シンクロするというのも今風の言い方さ。奴らは共鳴しながら交信し、繋がり合っている。人としての立場は尊重するが、そこに上下の関係がある訳じゃない。俺の祖父はそのことをわかっていない。もっとも、俺にしたって祖父と同じようなものだけどね」  意味不明な説明に、葵が首を傾げているのにも構わず、省吾は一人で話し続けていた。そのうちに雰囲気もがらりと変わり、妙に明るく、浮き立つようなにこやかさを見せている。 「俺の身内の恥をさらすのはここまでだ。ここからはおまえの番だな。ここはおまえにとっても懐かしい場所のはず。おまえの血が嫌でもそう言うはずだ」  懐かしい場所、そして血、それがどういうことなのか、省吾が何故ここに連れて来たのか、単なる楽しみだけではなかったと、葵にはわかった。ここは父親がいた街だ。出会うはずのない二人が出会うことになった街。葵は容易(たやす)く気を許してはならない男が伝えようとしたことを、理解した。

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