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第一部 4-1

 省吾が言わんとしていたことを理解したのだろう。葵に近付いてからずっと匂い立っていた甘く緩やな香りが、熱くきりりとしたものに変わったのに気付かされる。それと同時に、隣を歩いていた葵がつと立ち止まり、何も言わないままに省吾の足をも止めさせようとする。省吾は葵が意図したことを意識するかのように数歩先に進んでから振り返り、冷然としながらも奥に熱情を秘めた葵の眼差しと向き合った。  薄茶色の瞳がうちにある光によって金色に輝いているのを、葵は気付いているのだろうか。省吾は美貌にも勝る美しい煌めきに、胸が喜びに沸き立つのを感じていた。  列車に乗り込ませてから、ここまで連れ歩いたあいだに、葵は肩の力を抜き、言葉遣いは乱暴でも、勇み肌で粋な気楽さを見せていた。それを硬く引き締め、すぐにも戦いに臨める態勢へと変えている。相手を威圧する雄々しさに溢れ、それなのに美しさは少しも損なわれず、むしろより凄烈となり、ひれ伏すしかない気持ちにさせる。これでは誰も葵に向かって可愛いとは言わないだろう。生半可な気持ちで接しては、怪我をするだけだ。  この美貌を前にすれば、誰しもが、女王気取りで従わせようとするのが当然と思うはずだ。葵にはそれ程に優れた美が備わっている。しかし、それが可能であるとしても、葵には思いも寄らないことのようだった。今あるように、葵は真正面から相手と向き合い、戦いを挑む。 「凄いな……」  省吾は気持ちが高揚するのを止められず、思わず知らず呟いていた。意志の力でそれを葵に聞かせないよう口の奥で呟いたが、葵には省吾の思いはどうでもいいようだった。葵は省吾の出方を見定めるように、厳然とした眼差しで静かに立っていた。  それにしても、女のように可愛い聡の話には笑わされたと、省吾は思う。誠司に会わせたなら、どういった顔を見せるのか、楽しみでならない。誠司を可愛いと思うのは、幼い頃からの付き合いによって生まれた省吾の個人的な感情で、仲間でさえ可愛いと感じたりはしない。怯えさせずにはおかない厳つい顔立ちに、省吾よりも上背のある逞しい肉体、父親の藤野にも劣らない冷徹さを隠し持つ男を、誰一人として可愛いとは言わない。聡とは全く種類の違う男が誠司だった。面白いことに、葵はそれを同じだと解釈した。  聡が仲間とじゃれ合うことも、器の大きさを見せて気にしないようだが、それも小癪な言い種だと省吾は思う。省吾の場合、こちらの意志ではなく、相手の意志で、誰にも触れさせないのでなければならない。自らの意志で自らを縛るのを嫌がろうが、慣れさせるまでのことだった。  今までは差し出されたものを頂くだけで、自分の方から手に入れようとしたことはない。一度もそうした思いに囚われたことがないのだから仕方がない。葵が見せるような器など、いとも簡単に叩き壊せてしまう男だと、知らしめるような相手が現れなかっただけのことだった。 〝俺はそこまで小さかないさ〟  省吾は葵の言葉を思い出し、確かに自分は小さい男だと笑った。それのどこが悪いと心の中で言い返す。余計なことを考えさせず、自分だけを見させることの何が悪い。葵は賢過ぎる。それでも攻略し甲斐のある賢さは嫌いではないと思う省吾だった。  葵がいとも簡単にロッカーの代金を返して来たのには驚いた。スクールバッグは未だ省吾の手にあるが、僅かな借りでも返されたことで、二人の立場は同等になった。まさかコインを持ち歩いているとは思わなかったが、葵の人となりを知るには良かったのかもしれない。葵はただ美しいだけではない。こちらの思惑から懸け離れた答えを返すことや、凄みの利いた雄々しさが、田舎育ちのせいだけでないのが省吾には見えていた。  葵は省吾のことを信用しないと繰り返す。それでいいと省吾は思っている。信じさせることに、どれ程の意味があるというのか。葵がすべきことは省吾をその目に映すことだけだ。省吾を見詰める為だけに生まれて来たことを自覚させるのに、信頼は必要ない。しかし、そう思い切れない厄介な存在があることを、省吾は認めざるを得なかった。  香月との取引で、葵は田舎での暮らしを捨てたと言っていたが、何度も語った聡のことは完全に捨てたとは言えないだろう。省吾には踏み込めない二人の関係が消えることなく存在している事実に、思い悩まされる。葵は自分のものだと確信しながらも、手応えのなさに悶々とし、初めて知る感情に鬱々とした気分にさせられる。  思い通りに事が進むのに慣れた省吾には、今のこの感情には苛立ちしか感じない。それでいて新鮮でもある。特定の一人に振り回されることに憎らしさが募り、立場を教え込まなくてはならない思いが増すばかりだった。  まずはこの一歩からだと、省吾は葵の意図を無視して、ただ付いて来いというように軽く笑って歩き出した。葵に背中を向けようが、葵が自らの意志で付いて来るのはわかっている。葵の賢さが逃げを認めさせないだろうことは、余りに明らかなことだとわかっていた。 「あんたの魂胆はどこにある?」  案の定、葵が省吾の背中に向かって話し掛けて来た。先に語ることが弱みになる場合もあると気付かないのだろうか。いや、違う。わかっていて声を掛けて来た。黙して語らないまま、穏やかに促す省吾を、葵はわざと問い質そうとしたようだった。 「オヤジがこの町で何をしていたかなんて、葬式の時にさんざん聞かされたからな、それをネタにどうこうするつもりなら、無駄なことだぞ」  挑発するように言い、省吾から少しでも話を引き出そうとするとは、全くもって、可愛げのない奴だと省吾は思う。十五になるかならずでこの調子では、賢いのも少々(かん)に障る。気に入っていようが、口幅ったい物言いに神経が刺激されて我慢がならない。  省吾は葵に近付くように歩調を緩くし、隙を狙って葵の肩を後ろから強く掴み、痛みに呻く暇も与えさせずにグイッと胸に引き寄せた。葵がはっとし、瞬時にさっとみぞおちへと肘打ちを食らわせようとするのを、もう一方の腕で押さえ込み、後ろから股の間に片足を差し込んで、背中から抱き(かか)えるようにして葵の動きを封じる。 「クソがっ」  葵の悔しげな声が心地いい。省吾は普段通りの物柔らかな口調で、葵の耳元に優しく声を響かせた。 「油断した?」

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