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第一部 4-2
「ああ、上品ぶった見てくれに騙されたさ、あんた、とんだ食わせ者だな」
美しさにうまく騙されたと言われたことへの返しを、ここでされるとは省吾も思わなかった。省吾はふふっと馬鹿にした笑いを葵に聞かせたあとで、葵の体を投げ捨てるようにして離してやった。肩の関節に指を食い込ませるように掴んだのだから、相当な痛みを感じているはずなのに、葵は放られた勢いにも負けず、道路に倒れ込まないでいる。それどころか、フンと鼻を鳴らして、大したことはないと平気な顔でうそぶいている。それを省吾は冷めた目で、本人さえも気付けないくらいに微かな苛立ちのこもった眼差しで、静かに眺めていた。
「折角の美しさも、その減らず口で興醒めだね」
「あぁん?意味わかんねぇぞ」
「馬鹿なふりをするのは、よさないか」
「なら、あんたが慣れろよ、俺にさ」
省吾にとって青天の霹靂 とは、この台詞だろう。慣れさせるつもりでいる相手から、同じ言葉を投げ付けられるとは思いもしないことだ。自分の方から歩み寄れと言わんばかりに、太々 しい態度で、こうもあっさり返されるとは、我ながら情けない限りだと、省吾は思う。
「おまえの方は、食えない奴だよ」
省吾は嫌みな口調で答えながら、葵を誘おうともせずに、一人で先に進んだ。その背中に向かって、葵が殴り付けるかのように声を届かせる。
「返事を聞いてないぞ、オヤジのこと」
「おまえの父親に興味はない」
突き放すように言って、省吾は歩き続けた。振り返って確かめるまでもなく、葵がこれ以上ない渋面 で睨み付けているのはわかっている。美しさを台無しにするその顔で、後ろを付いて来ていることもだ。
「可愛げの……」
ない奴と、省吾はそう呟き掛けて苦笑した。何度も同じことを思わされる自分が、甘々の腑抜け男に成り下がっていると気付く。一時のことだとはいえ、未知な経験は面白いものだと、苦笑しながら歩き続けた。
シャッターの下りた店が連なる道路に人気 はないが、漂う空気には紛う方ない人の生活がある。この街で暮らす者達の音が微かに響き、耳を澄ませば、うごめく人のざわめきが聞こえなくもない。そうした中の一つの店に、地下へと続く階段のある堅固な建物に、省吾は足を向けていた。
鉄筋コンクリート造りの二階建てのその建物は、道路に面した入り口は平たい板で塞がれ、中に入れなくされている。しかし、地下へと続く入り口だけはシャッターも上げてあり、人の出入りが出来るようになっていた。
「ここだ」
省吾は先に立って階段を下りた。階段の先にある凝った作りのドアを開け、葵の目に、看板もない質素な入り口とは雰囲気が全く異なる豪奢な小劇場を披露する。円形のステージを配した劇場のメインの照明は落としてあるが、薄暗いこの店が未だ現役であるのは、行き届いた設備と塵一つない清潔な床でわかることだった。
専用のライトが配備されたステージには、真鍮のベッドが置かれてある。その周囲に座り心地の良さそうなベルベットのアームチェアが等間隔に並べてあり、それぞれにマホガニーのサイドテーブルが合わせてある。飾り気のない入り口とは打って変わり、さり気なく配置された調度品も見るからに贅沢で、そこに豪華な生花が生 けられたなら、さぞかし華やかに引き立たせるだろう大振りの花瓶がひときわ目を引く。
劇場の雰囲気からしてわかることだが、椅子の数が少ないということは、限られた客しか入るのを許されないということだ。新しく整備された歓楽街では物足りない者達が、昔を懐かしみ、現金払いを承知で、こちらに足を運んでいるということだった。
「誰だぁ?今日は休みだぞぉ」
間延びしているが、どこか鋭さを感じさせる声が響き、奥から二十代半ばと思われる青年が姿を現した。ひょろりとした痩せぎすの体を軋ませるようにして歩き、こちらに近付いて来る。これといった特徴のない顔をしているが、不思議と存在感を漂わせ、それでいて呆 けたようにも見える。頭のネジが緩んでいるようでいて、その瞳の奥に知性を感じさせる奇異な青年だった。
「おい、ナギ、おまえは休みだと言うが、入り口は開 いていたぞ。お陰で、裏を開けさせる手間が省けたけどな」
それが省吾の声と気付くと、ナギと呼ばれた青年が特徴のない顔を明るく綻ばせた。
「あれぇ?坊ちゃん?どうしたんすかぁ?」
薄暗い中で目を屡叩 き、省吾の顔を確認すると、さらに晴れやかな笑みに顔を緩ませる。特徴のない顔には幼さが浮かび、体中が子供のような可愛らしさに揺れている。
「俺、嬉しいっすよぉ。休みなのに、店の方を掃除しておけって、父ちゃんに言われて、面倒だなって思ってたんすけどぉ、坊ちゃんが来てくれたからぁ、最高っすよぉ。藤野から連絡が来たからだって、父ちゃん、俺に言ってたけどぉ、本当はぁ、坊ちゃんの為だったんだなぁ、へへっ」
「正行 伯父 が?おまえの父親に?」
「そっすよぉ」
行動が筒抜けかと思うと、省吾は腹立たしさしか感じなかった。仲間うちで共鳴しながら交信する彼らに監視されているようにも思え、制御されない怒りがそのまま顔に出る。滅多に見せないその顔は、藤野をも怯えさせるものだが、それでナギを怖がらせようとしたのではなかった。ナギには通用しないとわかっている。意志を働かせてまでして、抑える意味がない。ナギはどういった省吾であろうとも、省吾がいるだけで幸せになれていた。
「坊ちゃんの顔、すごく変だぁ」
ナギはくすくすと本当におかしそうに笑っていた。鮮やかな色彩に煌めくようなナギの笑い声は、薄暗い劇場を仄かに明るくする程だった。それをふっと真顔になってやめたのは、省吾の後ろに立っている葵に目が行った時だった。
「あれれぇ?」
葵の美貌が衝撃的だったのか、またも目を屡叩いて確かめている。
「まさかぁ、坊ちゃん、ここでぇ……やる?……する?」
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