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第一部 4-3

 省吾のこれでもかというくらいに重い溜め息を前にしても、ナギは飼い主にじゃれ付く子犬のようにニコニコとして機嫌がいい。さすがの省吾も、キャンキャンとまつわり付くかのように甘えられては、僅かながら顔を赤くしても、怒りを爆発させずに耐えるしかなかった。 「いいか、俺はここで何もやらないし、する気もない。見に来ただけだ。それと坊ちゃんと呼ぶんじゃない。前から言っているだろう、何度も言わせるな」 「えーっ、坊ちゃんは坊ちゃんしょ」  省吾がこの世の中心であるナギには、坊ちゃんと呼べないことは人生の終わりを意味する。間延びした口調を歯切れの良いものへと変えているのを見れば、嫌でも理解するしかない。省吾はこれで何度目かというくらいに聞かされているナギの思いの丈を、今ここで、またも聞かされることになった。 「坊ちゃんを坊ちゃんって呼んで、なんで駄目なんすか?みんなだって、坊ちゃんって呼んでたっしょ?なのに、三つの時とは違うんだから、省吾さんって呼べって、みんな、言うけど、でも、俺、やっぱ、坊ちゃんは坊ちゃんだと思うんす。坊ちゃんは俺の坊ちゃんなんだもん、みんなとは違うんだ、ね?坊ちゃん、だよね?坊ちゃん、うんって言ってよ、坊ちゃん」 「ぼぼぼぼっっっぼっ……ぶはははははっっっ」  それは葵の弾けるばかりの笑い声だった。坊ちゃんの連発に我慢がならない省吾が、それでもナギへの気遣いを見せたことに感心しながらも、というよりは、馬鹿にするかのように爆笑する葵の声だった。明るい響きの葵の笑いが、光の粒を撒き散らすかのように劇場内を木霊する。 「もういい、ナギ。早く向こうへ行け、暫くしたら出て行くから」 「坊ちゃんがぁ、そうしろって言うならぁ、俺、行くっすけどぉ……」  間延びした口調に戻っているということは、ナギが省吾から勝ちを取ったということだ。ナギの機嫌は良くなり、再びニコニコとし、すぐには立ち去らずに、まだ笑い続けている葵に名残惜しげな視線を送っている。 「ねぇ、坊ちゃん、この子ぉ、父ちゃんにぃ……店に紹介する気ない?」 「よく見ろ、俺と同じ制服だろう」 「あーっ、ホントだぁ。坊ちゃんとおんなじ金持ち学校の服だぁ。でもなぁ、もったいないなぁ、ちょっと出るだけでぇ、すげぇ稼げると思うんすけどぉ……」 「だろうな、だけど、俺にその気がない」 「えーっ、ってことはぁ、ついに坊ちゃんにも、コレがぁ……?」  ナギが小指を立ててへらへら笑うと、省吾はその小指諸共にナギの手を強く(はた)いた。 「痛いっすよぉ、坊ちゃん。遊ぶのやめた方がいいってぇ、俺、前から言ってたしょぉ、だからぁ、俺の前でぇ、照れなくってもいいっすよぉ」  ナギは手を赤く腫らす程に叩かれたというのに、嬉しそうに続けている。 「あっ、だけどぉ、二人っきりでいいことしに来たってのならぁ、誠司の奴、今夜、藤野に叱られるなぁ、坊ちゃんから目を離したってさぁ。藤野は坊ちゃんには絶対に文句を言わないもん。全部、誠司に言うんだぁ」 「あの二人は、伯母さんの手前、俺を介して親子らしい真似をしているだけだ」 「誠司はまんま人っぽいからなぁ、俺、こんなんしょ、藤野は人らしくしろってうるさいけどぉ、俺、こいつのこと気に入ってるしぃ、こいつが子供ん時からずっとぉ、坊ちゃんの世話しててぇ、誠司の世話もしてたけどぉ、あいつは坊ちゃんじゃないしぃ、俺の坊ちゃんと違うもん。父ちゃんだってえ、今の父ちゃんが気に入ってるって言うしぃ、俺も父ちゃんの子供でいたいしぃ、替わりたくないんだぁ」 「もう喋るな、さっさと行け」  葵に聞かれることを少しも構わないナギに、省吾は苛立った。葵は笑うのに手一杯で、ナギの言葉まで耳に入っていないように見えるが、飽くまでもそう見えるに過ぎない。葵が聞き耳を立てているだろうことは、省吾には見えていた。 「うん、じゃぁ、俺、行くっすねぇ」  げらげらと苦しそうに笑い続けている葵に、ナギはぺこりと頭を下げてから、奥へと戻って行った。省吾に会えた嬉しさを隠そうともせずに、ひょろりとした痩せぎすの体で弾むように歩くナギの背中を目で追いつつ、葵が省吾に近付いて来る。笑いに掠れた声で葵が何を言うつもりかは、省吾にはわかっていた。 「坊ちゃん?」  葵の目に涙が溜まっていた。笑い過ぎて、どうしようもなく流した涙が、きらきらと光り輝いている。 「ぼっちゃ……」 「もう一言でも言ったら、顎を外すぞ」  それが冗談でないことを、葵が理解しているのは、嫌みな目付きでわかることだ。だからだろう。葵は笑うのを止めようとはしなかった。きつく睨んだとしても無駄なことだった。省吾は仕方なしに口元を歪めて、アームチェアの豪華さにも負けない雅やかさで、最上の場所と知る椅子に座った。 「おまえも座れ」  葵は一瞬の間、躊躇していた。その僅かな時間が葵から笑いを奪い、明るさを拭い取った。ナギがいなくなったことによって匂い立つ、この店の華やかさと淫らさの毒気に当てられたのかもしれない。慣れた様子で違和感なく、ゆったりと座る省吾のすぐ隣ではなく、一つ()けた場所に、葵は慎重に腰掛けていた。 「ふふっ、用心した?」 「当たり前だろ」  省吾はそれで構わないと思う。強気な態度がここで和らげられてはつまらない。軽く頷き、ステージに視線を移しながら話を()いだ。 「ここがどういうところか、わかっているかな?」  葵は素早く頷いた。認めたくないことだとわかるが、素直に頷いている。 「俺のオヤジがいたとこだと、言いたいんだろ?」

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