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第一部 5-1

 葵は無意識に足を運んでいた。頭の中に渦巻く疑問に答えが見出(みいだ)せない苛立ちに愛想を尽かした体が、葵自身を見限り、勝手に体を動かしているように感じる。省吾の後ろに付いて階段を上り、明るい日差しにさらされると、ほっとしながらも、より一層の無力感に(さいな)まれて気持ちが沈んだ。 「何もかも、こいつの思うがままか……」  これ以上は好きにさせないと決めたところで、地の利のある省吾の方に()があるのは間違いない。逆らうだけ損だろう。それならいっそ、中から真実と向き合ってみるのもいいかと考えた。淫靡(いんび)な匂いに淡く霞む劇場のアームチェアに素直に座ったのも、そうした思いからだった。  それでも父親がしていたことを目の当たりにして、平静ではいられなかった。傷付き、(くじ)けそうになっていたのは確かだ。省吾に気取られてはならないという意志の力に救われただけだった。取り乱さずにいられたのは、ひとえに両親への思いがそうさせていた。  父親は否応なしに足を踏み入れた場所から抜け出し、本来の自分へと自らを立て直した。心と体が傷付いていたのは父親の方で、それを癒やしたのが母親だった。愛がそうさせたというより、母親の強さと優しさが父親を癒やしたと思う。父親が自分を取り戻すあいだに、二人に愛が生まれたとするなら、(あき)れる程に仲が良かったのも理解出来る。 〝恵理子さんが俺をこんなにも幸せにしてくれたこと、わかってもらいたい〟  父親が誰を思ってそう言ったかは、薄々ながらも見えて来る。会いに行った相手が誰で、どう繋がるかまではわからないが、父親が母親を崇拝していたことの意味が、やっと理解することが出来た。だからこそ、あの劇場でのことに傷付けば、父親の努力を蔑むことになる。省吾に悲しみを見せるのは、父親を卑しめることにもなり、葵には到底自分にそれを許すことは出来なかった。  田舎ではふざけ過ぎて両親を悩ませたこともあった。はっきり言って、ふざけた程度ではなかったが、両親との暮らしは安定していたと、葵は思う。  あの頃は、ひどい風邪をひいて以来、体の中をざわざわと何かが動き回っているように感じて、どうしても自分を抑えられなかった。暴力で発散させる以外に、自分が自分でいられない気がしていた。そうした惨めで(げき)した時期にも、幼馴染の聡は側にいてくれた。あの頃の葵には、聡は何ものにも代えがたい存在だった。 〝葵、なに、イラついてんだよ〟 〝わかんないから、イラつくんだろ〟 〝あっ、それ、なんとなくわかる〟  聡はそう楽しげに言い、ケラケラと笑った。その笑顔に、葵は自分の中にある不可解な何かも大したことではないと思えた。その時から、悶々とした何かも落ち着いて行ったように感じた。  聡を思うと、いつも同じだった。見惚れる程の可愛さに、つい笑みが(こぼ)れる。  別れた時の身長は葵とほぼ同じだった。葵はこの一月(ひとつき)で急に背が伸びた。聡も伸びているかもしれない。力強いパンチが繰り出せるとは思えない華奢な体付きはどうだろう。葵よりも背が高くなり、聡が望んだ通りに、がっちりした男らしい体付きになっているかもしれない。 〝俺、自分の顔が嫌いだ〟  女子よりも可愛いと言われるたびに拳を繰り出す聡が、いつものように相手の顔を殴り付けたあとのことだった。コンビニに生まれ変わった店先で、それだけは昔のままのがたつくベンチに並んで座り、聡が店からくすねて来たオレンジジュースのボトルを、二人で回し飲みしていた時のことだった。 〝兄ちゃんみたいに、でかい男に似合う顔になりたい〟 〝そうか?俺は好きだけど、聡のその顔〟  深い意味もなく口にした言葉だったが、その時、聡が顔を赤くして俯いたせいで、葵は自分の気持ちに気付かされた。そういうことなのかと納得した瞬間、聡に手を伸ばしていた。  物心つく頃から、葵には意識する前に、すべきことやその方法を体が理解しているという感覚があった。それが葵を大人びた子供にしていた。あの時も、葵は何も意識せずに聡の首に手を回し、こちらを向かせた。聡はくりっとした可愛らしい目をさらに大きくして、発火しそうな勢いで頬を真っ赤に染めていた。その聡の顔に顔を近付けたのは、葵には特別なことではなかった。半開きの唇に唇を寄せたことも、葵には自然なことでしかなかった。  ジュースのボトルが地面に落ちた音で、聡がぎくりとし、誰かに見られたと焦っていたが、葵はあたふたする聡をからかい、笑い飛ばした。 〝心配すんなって、誰も見ていない〟 〝なんでわかんだよ〟  ニヤニヤするだけで答えなかったが、周囲の空気の振動と匂いによって誰も見ていないことが、葵には、それこそ感覚として見えていた。仲間が聡とじゃれ合うのを邪魔しなかったのも、感覚として、葵がするようには誰も聡に手を出さないという自信があったからだった。

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