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第一部 5-2

 事故が起きたあの日は、葵の方から聡を家に呼んでいた。両親の前では、留守番をさせられたことにむくれていたが、聡と二人きりで一晩過ごせると気付いたあとは、葵は両親がいないのを喜んでいた。聡は周りに誰もいないとわかると、やたらと甘えるようになっていたが、あの日も家に上がってすぐに、後ろから飛び上がるようにして抱き付いて来た。  葵はニヤリとしたのを覚えている。感覚を研ぎ澄ましてはいなかったが、誰かがこちらに向かって走って来るのに気付き、笑いながら聡の腕を(ほど)いたことも、はっきりと覚えている。聡にはわからないのだから仕方がない。拗ねて絡み付こうとするのを、葵は聡の両手を掴んで軽々と引き離していた。 〝誰か来るって〟  えっと聡が驚きの声を上げた直後に、村の駐在と村長が慌てふためいて玄関に駆け込んで来た。その時、葵は確かに笑っていた。両親の事故を聞かされた時、驚きに広がる聡の団栗眼(どんぐりまなこ)が余りに可愛くて、楽しそうに笑っていたのだった。駐在と村長の話を、理解したくなかったのかもしれない。それからのことは混乱した頭には、ぼんやりとしか残っていないが、聡の叫びだけはしっかりと記憶していた。 〝葵!帰って来るだろ!〟  あの時、葵は聡の顔が見られなかった。両親の留守を喜び、笑った自分が許せなくて、尚嗣が寄越した車に乗り込み、心を閉ざしてしまった。両親がいなくていいはずがない。それなのに、両親がいないことを葵は喜んだ。  村に残した荷物は全て倉庫に保管したと、尚嗣に言われている。キッチンとバスとトイレ、居間にしていた和室と両親の寝室、物置だった小部屋を改装して作った子供部屋、それだけの部屋数しかない狭い平屋が我が家だった。尚嗣のマンションにすっぽりと入ってしまうくらいの小さな家にあった思い出は、大した量ではないと思うが、そこにあった全ての物が、今は倉庫に納められている。 〝帰って来るだろ!高校、一緒のところに行くと約束したもんな!〟  約束したことは守ると、省吾には言っておきながら、大切な相手との約束は、荷物と一緒に倉庫の中だ。聡は説明のないままに姿を消した葵を許さないだろう。嘘吐き、裏切り者となじられて当然だと思っている。自分なら決して許さない行為だと、葵にはわかっていた。 「お天道さんに顔向け出来る生き方か……」  両親が葵と名付けた理由に思いを寄せた。 「オヤジは気付いていたのかもな」  事故の少し前、父親には、聡といる葵を不思議そうに眺めている時が度々(たびたび)あった。葵は何故かその眼差しを面映(おもは)ゆいものに感じたが、父親の眼差しを気恥ずかしく感じる理由がわからなかった。父親は何も言わなかったが、自分がしていたことと、葵がしていることの違いを見極めたかったのかもしれない。  省吾に見せられたものは、父親には辛いものだったのだろう。出来れば、葵には知られたくなかったはずだ。しかし、この町で暮らすと決めたからには、避けて通れないことだった。それなら自らの意志で真実と向き合った方が間違いがない。噂に振り回されて、泣き崩れる訳には行かないのだと、葵は思った。 〝涙を見せるな。付け込まれるぞ。恵理子の恥になる〟  両親の葬式で、遠縁の者達の噂話に動揺した葵に、祖父の尚嗣が言ったことだ。義務感から引き取った孫に、香月家の誇りを傷付ける権利はないという意味なのだろう。遠縁の者達が嘲るかのように囁いていたことに涙を見せれば、父親だけでなく、母親をも屈辱することになる。尚嗣が厳しい人であることに変わりはないが、母親の名誉を守ろうとしたことに嘘はない。ああした店で働いていた父親を、死後においても、香月家の一員として受け入れるという寛容さを見せようとしない気持ちも、葵は理解した。  香月家は資産家というだけではない。この町を治めていた領主の家柄で、一点の曇りもない由緒正しい血筋を誇る権力者でもある。遠縁の者達が香月家の財産と地位に欲心を抱き、葵を疎ましく思うのも無理のないことだ。両親の墓を分けたように、尚嗣の本心もそこにあると、葵は思っている。  それを責めるつもりはなかった。取引を申し出たのも、香月家の全てに興味がなかったからだ。葵は篠原亜樹と篠原恵理子の息子であることを、恥とは思っていない。ストリッパーの息子で構わなかった。それを省吾に、こう切り捨てられてしまった。 〝そこに逃げたところで、無意味だぞ〟  葵が篠原であることの何が逃げであるのかわからず、省吾の言葉に考えさせられた。  母親は最期の時に、〝ごめんね、葵……〟と言った。葵を一人残すことへの無念さが言わせたことだと思い、自分には受ける資格がないと思っていたが、間違っていたのだろうか。母親は何に対して謝ったのだろう。  この町は何かがおかしい。この一区画を除けば、どこもかしこも清爽(せいそう)として晴れやかで、人が理想とする町だとも言えるが、画一化されて面白味のない町になっている。父親のことがなければ、ここに連れて来られたことを省吾に感謝していたはずだ。未だ残るこの町の暗部を心から楽しめたと思う。実際はナギという青年の奇妙な物言いにあるように、町のおかしさがより鮮明に映し出されただけだった。  ナギは自分の事を〝こいつ〟と言った。まるで肉体と意識が別物であるかのような言い方だった。省吾はここで暮らす者達の関係を〝シンクロする〟と表現し、共鳴しながら交信し、繋がり合っていると話していた。人としての立場は尊重しても、上下の関係はないとも言っていた。彼らには何か秘密がある。この町をおかしいと感じる理由が、そこにあるような気がした。  この通りも、父親がいた頃とは大きく変わっているのだろう。省吾の伯父と〝シンクロする〟者達だけが残っているということだが、昔のような賑わいは消えても、〝シンクロする〟彼らの街として、(ひそ)やか息衝いているということだ。  ここで育ったという省吾は、自分もまた、彼らの奇妙さを理解しない祖父と同じような認識だと話していた。理解出来ないとしても、幼い頃からの付き合いで、慣れてしまっただけのようだった。葵にも、省吾にはナギのような不調和な奇妙さがどこにもないのが見えていた。 「坊ちゃん……か」  葵はくすっと笑ったが、同時に肩の痛みがぶり返したようで、思わず軽くさすった。一瞬で片腕を無効にされた時の驚きには、今も身が(すく)む。省吾が力を加減したのはわかっている。そうでなければ、(ゆう)に肩を外されていた。

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