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第一部 6-2

 誠司の外見は父親の藤野を若くしたようなものだ。厳つさをより際立たせる逞しい肉体、それを洗練されたものに見せるスタイルの良さ、当たりは親しげだが非情さを隠し持っているところも似ている。確かな違いと言えば、誠司は生まれた時から贅沢に暮らしているということだ。誠司の言葉遣いがきつくなったのは、藤野の胡乱(うろん)な生い立ちとその仕事が原因だった。見下されることに我慢がならなかった誠司には、汚い喋りがしっくり来たようで、藤野にどう言われようが、言葉遣いに関しては自分を貫いている。しかし、藤野は違った。  長身でスタイルの良さを最大限に利用し、実業家としての品位を身にまとい、言葉遣いも丁寧で落ち着いている。その安心感で、誠司のように相手を怖がらせずにいる。相当もてるという噂だが、昔とは違い、結婚してからは真面目そのものだ。独身を通すだろうと言われていたのが、まるで計算したかのように、若い娘と大学卒業を待って結婚し、省吾が母親に宿るのに合わせて誠司をもうけた。そこに愛があるかどうかは別として、年の離れた叔母への誠実さに間違いはないと、省吾は理解している。  藤野とはそういう男だが、いかに()し上がろうとも、蜂谷家の縁戚となろうとも、この町での藤野の立場が変わることはなかった。祖父の剛造だけでなく、父親も藤野を使用人として扱っている。  藤野がそうした扱いを気にしたことはないが、妹である省吾の母親には兄らしい横柄さを見せていた。蜂谷家の女主人としての地位を確立し、この町の顔役に納まろうとする母親が、早いうちから藤野を避けるようになったのは当然のことだ。  省吾でさえ、そうだった。三歳の時に引き取られるまでは、藤野が伯父であることをわかっていなかった。弟の優希は事情を知っても、親にならって藤野を使用人扱いする。それを誰も(とが)めたりはしない。優希が誠司を恐れるのは、従兄弟であることを恥と思う気持ちの裏返しだろう。心のどこかで誠司に好かれたい思いがあるようだが、下手(へた)に誠司を(つつ)けば返り討ちに合うだけだ。恥と思う相手への好意を、恐ろしさに変えて、近付けない自分の弱さを宥めているとしか思えない。  その優希が生まれた日に、独りでぽつんと部屋に閉じこもっていた省吾の前に、藤野は現れた。屋敷中が優希の誕生に沸き返っていたが、省吾だけは何もさせてもらえなかった。部屋にいるよう言われたことを守って、ベッドの端にちょこんと座っていた。そこへ藤野が現れた。藤野は幼い省吾の目線に合わせるように片膝で(ひざまず)き、省吾の手を取り、静かに言った。 〝省吾坊ちゃん、藤野と一緒に来て頂けますか?〟 〝どこへ?〟 〝藤野の家に……〟 〝だけど、僕はまだ赤ちゃんに会っていないよ。お爺さまもお父さまもお母さまも、ダメ だって言うけど……〟 〝坊ちゃんはここにいたいですか?〟  幼いながらも、すぐに答えを返せない自分に苛立ち、藤野に取られていた手を乱暴に引き剥がした。省吾は藤野を厳しく睨み、口調も激しくして言った。 〝僕はここの家の子だっ、藤野の家になんか行かないっ〟 〝ですが、剛造様が坊ちゃんを藤野の家に引き取るよう言われました〟 〝お爺さまが?〟  母親の腹に省吾が宿ったと知ったその日から、両親は省吾を(うと)んじた。香月の娘の駆け落ち騒ぎの中で発覚した妊娠だが、剛造が妄信する因習を理由に、結婚させられたことが許せないでいる。父親にとっては遊びでしかなかった相手であり、母親にとっても、父親の婚約者であった香月の娘への当て付けでしかなかったことが、まさか妊娠するとは思っていなかったからだ。  省吾の母親と葵の母親、この二人の女には、他人には知られていない根深い繋がりがありそうだった。『淑芳女学園(しゅくほうじょがくえん)』の先輩後輩で、二学年の差はあっても、同時期に通っていたのだから、女同士の反目があってしかるべきだろう。大学卒業後も『淑芳聖女会』という怪しげな組織において、両者の支持派による諍いがあることは、葵の母親と同級だという伯母から聞かされたことがある。しかし、好きでもない男を相手に、平気で誘惑出来る女と、全てを捨てて逃げ出せる女、どちらが上手(うわて)かは省吾には見極めが付かないでいる。その二人は、のちにそれぞれの相手とのあいだに子供をもうけている。しかも同い年というのだから、不思議な縁だ。  両親は結婚後も好き勝手に生きている。だからこそ馬が合ったのだろう。憎み合っていた二人が、今では仲のいい夫婦と言われている。その意味でなら、優希は両親に愛されて生まれたと言える。両親にとって、省吾は人生の汚点でしかない。蜂谷の家で暮らした三年で、幼い省吾にも薄々感じ取れていた。祖父の剛造だけが省吾を気に掛けてくれていたが、それも優希が生まれるまでのことだった。 〝お爺さまが……?〟  あの幼い日に、省吾は剛造を思ってそう繰り返し、祖父にも見捨てられたことを悟り、ベッドから下りていた。藤野が立ち上がり、再び省吾の手を取ると、省吾はその手を強く握り返した。そのまま部屋を出て、玄関ホールに向かおうとしたが、藤野が優しく省吾の手を引き、立ち止まらせた。 〝祝いの客がひっきりなしに来ています。裏口から出るよう、指示されました〟  省吾は逆らわなかった。その時にはもう自分はこの家の者ではないと理解していた。裏口に出ると、藤野が手配した車が待っていた。 〝ねぇ、印ってなに?〟  藤野の横に座って、車が動き出した時、省吾は聞いた。 〝僕も赤ちゃんが見たくて、部屋に行ったんだ、追い出されちゃったけど。でも、お爺さ ま、にこにこしてたよ、印があるって〟  〝そうですか……〟  藤野は少しのあいだ眉を(ひそ)めたが、すぐに笑顔になり、穏やかな口調で答えていた。 〝思い込みです〟 〝おもいこみ?〟 〝難しかったですね〟  藤野はくっくと笑い、楽しそうに続けた。 〝正しいと信じていることがあるとします。それを本物にしてくれるのが印です。その印が正しくないのに、固く信じてしまったとします。それが思い込みです〟 〝お爺さまは正しくないの?〟 〝はい。今はとても小さな間違いです。ですが、これからどんどん間違いは大きくなります〟 〝教えてあげないの?お爺さまに?〟 〝坊ちゃんはそうして欲しいですか?〟  省吾は俯き、小さく首を横に振った。 〝僕はもうあの家の子じゃない〟 〝我らも同じです。坊ちゃんのお陰で自由になれました〟  あの時、省吾には藤野が何を言っているのかわからなかった。幼さ故に、興味をなくしたのだろうが、藤野に言われ、顔を上げ、そこに現れた光景にそわそわしていたからでもあった。省吾は出来る範囲で体を精一杯に伸ばして、フロントガラス越しに見えた大勢の者達の姿に、気持ちの全てを向かわせていた。

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