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第一部 6-3

 最初に省吾の目に飛び込んで来たのは、誠司の姿だった。誠司は誰かと喧嘩をしたあとのようで、(ひたい)の真ん中に絆創膏を貼っていた。今にも車に向かって走り出しそうなのを、伯母が必死で押さえていた。そのすぐ後ろに、色褪せたランドセルを背負ったナギが立っていた。ちぎれそうな勢いで手を振っていた。ロウの姿もあった。ぴょんぴょんと飛び跳ね、幼稚園の黄色い帽子と揃いのカバンが体から外れそうだった。誠司の仲間も揃っていた。一人、目の下に青あざを作り、額に絆創膏を貼っていた。誠司の喧嘩の相手だとわかった。青あざで、誠司の勝ちだというのもわかった。もちろん子供達の父親も満足げな顔で立っていた。彼ら以外にも、省吾の知らない者達が大勢そこに集まっていた。 〝とめろ〟  藤野が運転手に低い声音で静かに命じた。車が停止すると、藤野は自らの手でドアを開け、省吾を降ろした。省吾は幼い足でおぼつかなげに道路に立ち、彼らを眺めた。瞬く間も惜しみ、彼らに向かって駆け出していた。その時から、省吾の家族は彼らになった。  三歳の記憶がこれ程鮮明に残っているのは、おかしなことだ。家族になったあの日のことを、忘れてはならない。しかし、家族であるからこそ、遠慮のないことも平気でする。 「あなたは、幾年(いくとせ)を過ぎても変わらない……」  今のこの時のように、こうした台詞を平気で言う。 「……梟雄(きょうゆう)たる蜂谷の血に、未だ惑わされますか?」  省吾の中で何かが動いた。意志が、記憶が、血の流れに沿って肉体の中で一つになって行く。  「やめろ」  省吾は重く呟くように言った。大声でもないのに、その響きに周囲の空気が震えたのがわかる。熱を持つエネルギーの放出に、空間が霞むように揺れ動き、微かな振動の波が四方へと行き渡る。人の目には映されない熱の波が、省吾を中心として光の矢のように広がり行く。その情景はロウの瞳の奥深くには映されている。 「見るのは構わないが、口を出すな」 「仰せのままに……」  服従の言葉に(かぶ)せて、綽然(しゃくぜん)とした笑い声が省吾の耳に届けられた。全てが夢の中にいるような曖昧さだが、ロウが何かを恐れたように不意にぎくりとし、顔色を変えたのを見れば、何もかもが現実に起きているということだ。  省吾は化け物になれと促されているような気分になった。人を魅了する優美な顔が、その一瞬だけ、怒りに任せた鬼の形相へと変わっていた。 「ちょっ、ちょっと、待ってくれって」  ロウが即座に両手を上げて、省吾に降参の姿勢を見せている。 「俺じゃないって、オヤジ連中が出しゃばって来ただけだからっ」  少し後ろに下がり、省吾とのあいだに距離を置く。 「兎に角、マキノのところへ行ってくれよ。俺はあいつらを片付けなきゃなんないからさ」  ロウは苛立つように首の後ろをガシガシとこすり、三人が固まって倒れている場所へと歩いた。途中、ひややかな顔付きで問い掛けるような眼差しを向ける葵と目が合い、今度は片手を上げて、断りの姿勢を見せていた。 「何を言いたいのか知んないけど、頼むから、何も言わないでくれよ、頼むから……」  その願いが叶えられ、葵がロウから省吾へと視線を移すと、ほっと息を吐いていた。 「藤野の野郎、普段は省吾さんには文句一つ言わないくせに、あんなところで出て来やがって、クソっ」  葵にすれば、訳のわからない話だ。それでも葵はロウを受け入れていた。何も言わずにロウと擦れ違い、省吾へと歩いて来る。省吾は背を向けて先に行こうとはせずに、自分に近付いて来る葵だけを見詰め、目の前に葵が来るのを待っていた。 「あんた、何をした?」  問い質すかのような険しさが葵の口調にはあった。 「何が?」 「すっとぼけんじゃねぇぞ、俺を間抜けだと思ってんのか?」 「まさか」  いつも通りの物柔らかな口調で答えていたが、自分の声に心持ち苦しげな響きがあることに、省吾は気付いた。ゆったりと笑みを浮かべたところで、心のうちまで穏やかになれるものではない。それを葵には知られたくなかった。省吾は葵が目の前に来ると、たまらず手を伸ばし、素早く背中に腕を回して、(いまし)めるかのように強く抱き締めていた。 「おっ、おいっ、なんだよっ」  葵は体を後ろに反らして省吾を引き離そうとするが、無駄なことだ。省吾は腕による(しば)りをさらに強くし、身長差の分、葵を僅かに引き上げ、肩に顔を埋めるようにして唇を寄せ、耳元に甘く囁いた。 「怖かったんだ」 「はあぁぁ?」  葵が調子っぱずれな声を出した。省吾のしていることが全く理解出来ていないのが、声の(とが)り調子に表れている。 「俺はおまえと違って小さい男だからね、あいつらがおまえに触れたらどうしようかと心配で……」 「心配って、あんたがか?意味わかんねぇぞ」 「そういうのが好きだろう?可愛いのがさ」 「はあぁぁ?」 「おまえは幼馴染が仲間とじゃれるのも邪魔しないと言っていたが、俺には無理だ。あいつらがほんの指先でもおまえに触れていたら、今頃はどうしていたか……自分が怖い」 「はぁ……?」  少しだけ意味を理解したのか、声の調子が微妙に変わる。 「……なら、なんで手を貸さなかった?」 「だから、怖かった」

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