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第一部 6-4 (終)

 つと省吾は顔を起こし、片腕を離して、その手を葵の顎の下へと移した。親指と人差し指のあいだに葵の首を挟み込み、強く握るようにして顔を上げさせる。 「いっそ、このまま首を絞めてしまおうか、俺もおまえも楽になる」 「はあぁぁ?」 「だけど、それでは楽しみが終わってしまう」  顔を上向かせた理由はただ一つ、省吾は首を少し傾けて、葵の顔へと顔を近付けた。しかし、残念なことに、省吾が求めた神聖かつ邪な目的は達成されなかった。腕を外したことで、隙の出来たわき腹へと、葵のパンチがお見舞いされそうな気配に、無理やり押さえ込んで怪我をさせるより、身を引く方を選んだからだ。 「バカやってんじゃねぇっての」  葵は省吾の気持ちを見透かしたように、芸術品であるはずの美しい唇を、ニタニタと品のない笑いに崩している。省吾は世にも稀な美貌が艶消しとなるニタニタ笑いに閉口し、不機嫌に顔を歪めた。 「なんだよ、その顔、田舎のジジイなら、色男が台無しってんだろうな」 「よく言うよ、おまえの顔も相当だぞ」  葵に笑われ、ついむきになって答えてしまった自分に驚きつつも、省吾は他愛ない言い合いを楽しんでいた。 「だけど、俺は本気だよ、おまえに関してはね」 「だろうな、あんたが俺に気があるってのはわかったからさ」 「それは……どうも」  葵に軽くあしらわれるのは、これで二度目だ。一度目は、スマホに誠司からの連絡がないのを、可愛い友達に捨てられたかと揶揄されている。次はこれだ。二度目ともなると、何も知らない初心な男扱いされているようで、複雑な気分になる。そこに怒りを感じないのが不思議であり、面白いとも思えた。 「わかっているのなら、俺を怖がらせないよう、誰にも触らせないことだね」  省吾は念押しするように言い、葵を促して歩き出した。 「おい、あれはいいのかよ」  葵に言われ、喫煙所を見遣ると、こちらを覗き見ているロウの視線とぶつかった。油断も隙もない奴らだとわかっているが、彼らの通信網から逃れられないのなら、見せ付けてやるまでだ。省吾は葵を相手に楽しみ、彼らをからかった。ロウにも、その瞳の向こうの彼らにも、省吾の思いは伝わったのだろう。省吾が嫌みな笑いを浮かべた途端、ロウはくるりと背を向け、喫煙所の奥へと姿を消していた。 「好きにしていいと言ったしね」  まるで省吾の許可を待っていたかのように、その瞬間、ロウの怒鳴り声が店先にまで響いて来た。 「俺の客人になんてことをしてくれたっ」  それと同時にぼすっと、硬そうでいて柔らかい何かに向かって拳を打ち付ける鈍い音がする。 「てめぇらのお陰で、とんでもないもん、呼び出しちまっただろうがっ」  再び、ぼすっと鈍い音がし、それが立て続けに続く。 「すっ、すんません。ロウさん、すんませ……」 「こっちは冷や汗、かかされたんだぞ」  ぼすっ、ぼすっと、鈍い音は止まらない。 「すっ、すんません、すんません……ぐぇっ」  何かを吐き出すような気持ちの悪い音がして、葵が振り返りそうになる。その頭を省吾は押さえた。 「見るな、気分が悪くなるだけだ。ロウは楽しい奴なんだけどね、楽しみ方が少しばかり極端でさ」 「俺はちゃんとあの三人と勝負をつけた、余計なことだ」 「行儀の悪い奴らに、礼儀を教えているだけだよ」 「……って言うけど、あの兄ちゃん、すげぇ音、させてるぞ」 「おまえの蹴りよりは優しいと思うけどね」  急所を蹴り上げたのは誰だと言わんばかりの省吾の口調に、葵が軽く肩を(すく)めた。 「先に仕掛けて来たのは、あいつらだろ?俺の場合は正当防衛ってのさ」 「それはおまえの理屈。ロウにはロウの理屈がある。人としての理屈だってあるしね」  省吾の言い方に、葵が考え込むように下唇を少し噛んだ。淡い色に艶めく唇が、キスを求め、赤く染まるのを待ちわびているようにも見える。その唇を物欲しげに眺めた自分に、省吾は苦笑するが、葵には気付かれなかった。ガラス戸を通り抜けて外に出たあとも、葵の頭は考え事で一杯のようだった。 「あのさ、はぐれ鬼って、なんだよ」 「知りたい?なら、さっきの続きでどう?キス一つなんて安いものだろう?いい取引じゃないか?」 「はあぁぁぁ?」  またも葵が調子っぱずれな声を出した。省吾をイラつかせる少し高音のその声は、別の誰かであれば、黙らせていただろう。葵の声だと気持ちが和まされ、藤野に言われたことで鬱々としていた気分も明るくなる。取り敢えずはそれで満足することにして、今回は特別に貸しにすると葵にわからせてから、省吾は答えた。 「あだ名みたいなものかな。というより、ただの冗談?」 「なんだかここは……」  葵の口調が物思わしげに曇るが、省吾を見上げたその眼差しは鋭いものだった。 「……冗談ってのもだけど、おとぎの国みたいだな」 「おとぎの国ねぇ……」  それ程に綺麗で愉快でもないと思うが、的を射ているようにも感じた。家族と思う彼らの思惑に乗りたくはないが、化け物も悪くないと思えて来る。葵が側にいるのなら、省吾が見ないようにしていたことも、意外と無理のないことのように思えて来る。 「……ガキのように引きずり回すなと言った割に、子供っぽいことを言うよな」 「うるせぇ」  葵が拗ねたようにぷいっと横を向いたのが可愛くて、省吾はおかしそうに笑った。

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