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第一部 7-1
その店は葵には懐かしいものだった。瓦屋根の古い木造住宅の二階屋で、一階が店舗で二階が住居になっている。横道に逸れたところにあるせいか、まばらではあるが、周囲には店よりも住宅が多い。空き家ばかりで、人の気配はなく、どの家も入り口は侵入者を防ぐように分厚い板で塞がれている。どこを見ても暗い雰囲気が漂う中で、きちんと掃除がされているその店だけは生き生きとし、『マキノ』と名前の入った看板にも、清らかで皓々 とした輝きがある。
店の入り口は半円形のガラスの飾り窓がはめ込まれた木製のドアで、そのドアを中心に、表側だけ波形模様のグラデーションが入った磨 りガラスの壁になっている。その足元にはレンガで囲われた花壇があり、可憐な春の花々が競うように咲き誇っている。
「田舎じゃぁ、こんな店に、爺ちゃん婆ちゃんが集まっていたぞ、ここもか?」
「さぁね、オヤジ連中はよく集まっているみたいだけど、どうかな?子供の頃は腹がすいたら、誠司や仲間とよく食べに来たけどね。今だって、ここで働く奴らの昼を用意してやっている。あとでナギもロウも来るだろうし、便利な店ではあるけど、おまえの田舎とは違うんじゃないかな」
省吾は否定するが、葵はこの店の雰囲気に懐かしさを感じた。駅前のオープンカフェに比べれば、野暮ったいと思うが、この時代遅れな店構えには味わいがある。
「なんか……いいな」
葵は店全体を眺めようと首を後ろに反らした。まさかその時、ドアが開くとは思わず、驚きに足を取られ、倒れそうになる。省吾が笑いながら抱き留めてくれたが、葵が感謝を口にすることはなかった。省吾の手を邪魔臭そうに払ったのも、ドアの向こうから現れた女に気持ちが向かっていたからだ。途端に省吾が不機嫌になったが、葵のせいかどうかはわからない。省吾もドアの前に立った女に目を向け、ややきつい眼差しでその人物を眺めている。
「私に叱られそうで、入って来れないの?」
その声で、その人物の性別が男なのがわかった。本来は間違えようのないことだが、ぱっと見では迷わされる華やかさが男にはあった。
春らしい色合いの薄手のセーターにスラックスという、軽い装いに透けて見える骨格はしっかりしている。喉仏も目に付く上に、何より胸がない。省吾よりは低いが、そこそこある身長に、肩幅も広い。それを女と思ったのは、頭の後ろで緩く結わえた長髪に卵形の綺麗な顔立ち、そうしたものに何故か儚さを感じたからだ。それだけではない。年齢不詳のつるんとした肌に艶やかな黒髪、永遠の時を生きる妖女のような若々しさが、その男にはあった。
「マキノ……」
省吾の呼び掛けは忌々しげで、年上への敬意は全くなかった。それなのに、慣れ親しんだ間 柄 だからこそ許される甘えがあるように、葵には思えた。
「……おまえの冗談に付き合う気分じゃないぞ」
「ふふっ、子供の頃から、ロウは省吾に怯えると、私に泣き付いていたものね。省吾が私には弱いってわかっているから。本当にあの頃は、みんな、可愛かったわ。省吾なんて、私の膝で、お昼寝ばかりしていたわね」
マキノと呼ばれた男は明るく笑い、片手を伸ばして省吾の頬に触れ、子供をあやすかのように優しく撫でる。
「こちらに来てからというもの、誰も彼もが甘やかすから、捻くれた子供になっちゃて。私くらいなものよね、省吾を叱り飛ばしていたのは」
省吾は本気で嫌そうな顔をして見せたが、マキノの手を振り払おうとはしなかった。それでも好きにはさせないというように、頬に触れる手をそっと優しく握り締め、そのあとで、壊れ物を扱うようにゆっくりと頬から離した。ナギやロウに対する態度とは大違いで、相手を労る細やかな仕草だった。
省吾は今朝出会ったばかりの葵に対しても横柄で、思うがままにしている。それがこのマキノに対しては、慎み深く振る舞い、愛する者への温かみを見せている。葵は釈然としない何かを思い、二人のあいだに存在するものに、答えを出したがらない自分に苛立ちを感じた。
「いじけないの」
掠れ気味のマキノの声は僅かながら熱を帯び、そこはかとない色気が漂う。葵はゆるゆると匂い立つばかりの妖しさに目を見張り、マキノの秀でた顔から、儚くも均整の取れた優しげな体全体に視線を走らせた。その不躾な眼差しに気付いたのだろう。マキノは葵へと顔を向けたが、葵に声を掛けることはせずに、省吾に話し続けていた。
「ちゃんと考えなさい、藤野が言ったことをね」
言いながら、マキノが省吾へと顔を戻す。省吾に掴まれている手を引き、その手で省吾の胸に触れ、後ろに行かせるようにグイッと押した。
「さぁ、中に入って」
それは葵に向けて言われたものだった。マキノは省吾が見せるのと良く似た柔らかな口調で葵を誘っていた。
「この子のことは気にしなくていいから、遠慮なくどうぞ」
省吾を無視するように言い、開いたドアへと葵を誘 う。少しも強い口調ではないのに、葵は逆らえないような気がした。後ろに下がらされた省吾も、同じ気持ちのようだった。素直に従った葵の後ろから店に入っている。勝手気ままな省吾が、マキノの前では形無しだった。二人のあいだに感じた解 せないものが何かは、益々見ない方がいいような気がして来る。
葵が二人に奇妙な違和感を抱いたとしても、店とは関係のないことだ。中に入って最初に感じたのは、美味しそうな匂いがしていることだった。店構えと同じに、どこか懐かしさを思わせるいい匂いで、その思いのままに、葵は店の奥へと視線を流した。
細長い店内にはカウンター席が五つとテーブル席が三つあり、行き当たった先には二階へと上がる階段がある。こぢんまりとした店内の照明は消されていたが、磨りガラスの壁から入る日の光で薄明るい。白々 とした色彩の壁紙は可愛らしい小花柄で、あちらこちらに飾られた精巧な作りの小人妖精の人形も愛らしさに溢れている。それに合わせた調味料入れも繊細で、雑に扱えば壊れそうなものだった。
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