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第一部 7-2

 葵は省吾がこの店の客について、どう話していたかを思い出した。話題にしたのが男ばかりだったことに気付く。 「笑えっぞ」  ここで食事をする彼らの姿を思うと、余りに不釣り合いな雰囲気に、口元も緩む。省吾が葵の笑いを気にして、物問いたげな視線を向けているが、何がおかしいのかはわざと教えなかった。さっさとカウンター席の真ん中に座り、隣に省吾が座ったことにも無視を決め込んだ。マキノが何か言いたそうにしていたが、それにも応えなかった。マキノは結局何も言わずに、カウンターで仕切られた調理場に入り、食事の用意を始めている。 「昼には少し早いけれど、あなた達の年なら平気よね」  そう言ったきり、あれこれと忙しくしていた。手際良く進めて行く様子が優雅にダンスを舞うようで、眺めているだけでも十分に楽しいものだった。 「メニューが気になる?」  マキノが少しだけ動きを止め、振り返るようにして葵を見る。 「今日は私特製のクリームシチューなの、どう?」  葵は驚いた。懐かしい匂いがしていると思っていたが、クリームシチューと聞いて、理由がわかった。 「それ、オヤジの得意料理だぞ。村のもんにも何かっていうと作ってやっていた。評判が良かったんだ」 「そう……」  マキノはニコッと笑った。美しい笑顔ではあったが、そこには省吾に見せたような艶やかさはない。さらりとして、どちらかというと男気を感じさせる。その笑顔のまま、葵と省吾の前に、大きめの野菜がたっぷり入ったクリームシチューに、こんがり焼いたパン、しゃきっと新鮮なサラダを置く。葵はすぐにスプーンで一口すくって口に入れようとしたが、ふと手を止めて、この店に入ってから何も話さない省吾を気にし、さり気なく隣へと視線を流した。省吾は何食わぬ顔でクリームシチューをスプーンですくって口に運んでいた。それだけのことなのに、手付きに品があると思わされるのだから、さすがとしか言いようがない。 「省吾がおとなしいのが気になる?」  マキノに見られていたとわかり、決まり悪くなる。葵は返事をする代わりに、スプーンを持ったまま僅かに俯いた。 「この子はそういう子よ、喋りたければ喋るし、その気がなければ何もしない。だからこの子の機嫌なんて気にするだけ馬鹿を見るの。こちらに来た頃は、我がまま一つ言わない素直な子だったのにね、子供らしさに欠けるって気がしていた程に。それもあって、みんな、甘やかし過ぎちゃったのよねぇ、本当にちっちゃくて綺麗な子だったのよ、それが今じゃ、図体ばかりが大きい俺様子供なんだもの」  省吾がすっと顔を上げてマキノを睨んだ。目で何かを伝えたようだが、マキノに笑われると、顔を顰めてシチューを口に運ぶことに専念する。葵にはそれが省吾なりの照れ隠しに思え、この男にも可愛いところがあるのだとわかり、ニヤリとした。気分は上々だと、そう思いながらスプーンを口に入れ、シチューを飲み込んだ。瞬間、感極まって、葵は思わず破顔した。 「これ、同じ味だ、オヤジが作ってくれていたのと同じ味……」 「当然ね、私が教えてあげたんだもの」  漠然と感じていたことをマキノに言われ、質問が口から出掛かったが、言葉にすることは出来なかった。マキノにするりとかわされ、省吾に劣らず食事のマナーを身につけていることへと話を移されてしまった。 「ちゃんと躾されているのね」 「そうでもない、仲間の前だとカッコ付けてっからさ。だけど、そうじゃないところだと母さんがうるさくて……」  自然と母親が生きているような言い方になった。葵ははっとして声を詰まらせたが、すぐに言い直している。 「……うるさかったから」 「そう……」  マキノの声には、優しさが伴っていた。 「……亜樹は幸せだったようね」  腰を据えてじっくりと話すことにしたのか、マキノは調理台の下から椅子を取り出し、そこに座った。 「こう言ったらなんだけれど、あなたの両親、余りに違い過ぎるでしょう?片や施設育ちのストリッパー、片や町の権力者のお嬢様、うまく行くなんて思えなかったわ」 「俺はそんなの知らない。だけど、俺の知る両親は……ああ、幸せだった」  クスクスと子供のように笑い合い、人前でも平気でキスをしていた二人の姿が思い出される。二人が振り向き、そこに葵の姿を見る。葵が恥ずかしさに逃げ出すと、いつも二人は追い掛けて来た。 〝もう、ダメ、私、息が切れそう……〟 〝俺もダメだ、付いてけないよ。誰に似たんだ?こんなにすばしっこいなんて……〟  家族だけの鬼ごっこは、十歳を前にしなくなっていたが、振り向けば必ずそこにいるのはわかっていた。葵がふざけ過ぎて両親を悩ませていた時でも、二人が葵を何よりも大切に思っていることだけは理解していた。  葵は両親との思い出に目の奥を熱くしたが、涙は流さなかった。流せなかったと言うべきかもしれない。マキノを見返す葵の瞳は悲しみを映していても、涼やかに力強く煌めいていた。その凛とした眼差しに、マキノが感心したように言った。 「伝説の恵理子様の息子だけはあるわね」 「えぇっ?伝説……?」  葵はこの店に来て、父親だけでなく、母親のことまで知れるとは思わなかった。

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