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第一部 7-3

 祖父の尚嗣と約束したとはいえ、母親のことは今日まで誰とも話したことはない。母親がこの町でどういった暮らしをしていたのか、さっぱりわからなかった。(かろ)うじて知り得たのは、父親を蔑む遠縁の者達の噂話の中でのことだった。男手一つで育てられた娘、世間知らずの令嬢、金目当ての男に騙された愚かな娘、それが遠縁の者達から聞かされた母親のこの町での姿だった。  葵は知りたかった。母親の本当の姿が他にあるのなら、知りたいと思った。 「伝説って、なんだよ。母さんは村じゃさ、悪ガキどもを追い掛け回していたぞ。俺なんて、いっつも、ケツ、叩かれてたしさ、こっちでも、そんな感じだったってのか?」  マキノが驚きに目を見開いていたが、納得もしたのか、軽く頷いていた。 「私も詳しくは知らないのよ、なんと言っても女学園の中でのお話だもの。ただ、誠司の母親があなたの母親と同級だったから、彼女から聞いたことなの」 「誠司?こいつの従兄弟のかわい子ちゃんか?」  こいつが誰かは言うまでもないことだが、マキノが聞き返したのはそこではなかった。 「かわい子ちゃん?誠司が?」 「俺からしたら可愛い奴だろ」  意地になって黙りこくっていた省吾が、唐突に喋った。余計なことは言うなという強い口調だったが、マキノは頓着なく話を繋げている。 「そうよね、可愛い奴の母親だもの、彼女が未だに夢見るような女の子なのも無理ないわね」  そこでマキノが思い出し笑いに顔を綻ばせた。明るい口調で語るマキノは、本当に楽しそうだった。 「白百合の如く清楚なお姿に凜乎(りんこ)とした物言い、優秀なる(かんばせ)は聖なる輝き、誰しもが憧れた恵理子様は今や伝説となり、たとえどんな醜聞にさらされようとも、淑芳女学園の聖女の誓いは永遠なり……なのだそうよ。恵理子様への忠誠を誓った者達の誓いは、何があっても、それがストリッパーとの駆け落ちだろうと揺るぎはしない……と、誠司の母親が言っていたの。自分は平凡な家の出で、恵理子様は雲の上の存在なのに、中等部でクラスメートになった時から、ちゃんと顔と名前も覚えてもらえていたし、廊下ですれ違えば、声も掛けてもらえていた……とね」 「それって……かわい子ちゃんの母親、本気で言ったのか?俺には……その、よくわかんないからさ、女のことは……」  それの何がおかしかったのか、マキノではなく、省吾が笑った。葵を挑発するかのように、陽気な笑いを店に響かせている。 「何がおかしい?ったく、あんたとは気が合わないよな」 「俺はそう思わないけど」  今度は何が気に入らないのか、省吾が目付きをきつくして答えている。マキノがそうした二人の遣り取りに相好を崩しながらも、心持ち呆れたように言った。 「二人とも黙って食べなさい。静かにしていたなら、そのあいだに私の昔話を聞かせてあげるわ。一言でも口を挟んだら、話は終わり、わかった?」  葵は叱られたのは省吾のせいと言わんばかりに隣りを睨んだ。省吾が白けた顔をしてみせたのには、ふんと盛大に鼻を鳴らしてやった。そのあとで、おとなしくマキノに頷いた。 「亜樹はね、今のあなたにとても良く似ていたけれど、あなたのように健康的って感じじゃなかった。この世のものとは思えないくらいに、ただただ綺麗な子だった……」  マキノが昔を思い、うっとりした表情でゆっくりと話し始めた。 「……だから目を付けられたのよね。施設を出たあと、真面目に働いてはいたんだけれど、あの顔だから、変な噂も立てられたりして、仕事を転々とするしかなくて、仕方なしにこの街に流れて来たと話していたわ。でもね、目立たないようにして、裏方の仕事しかしていなかったそうよ。それが施設で友達だったというのが訪ねて来て、そいつに頼まれて保証人になっちゃったの。馬鹿よねぇ、当然、そいつは逃げたし、亜樹は売られたようなものだった」  マキノは喉が渇いたようでもなかったが、コップに水を注いで、それで喉を湿らせていた。 「クロキは……ナギの父親のことだけれど、亜樹が店で働かせてくれと頼みに来た時、断ったの。あの劇場の子達は今も昔も、私もそうだったけれど、みんな、好きでしている子達ばかりだもの」  それが何を意味するのか理解した時、葵は食事の手を止め、衝動的に顔を上げていた。困惑しつつも、マキノがにっこりと笑い返してくれたことで、気持ちも落ち着いた。 「クロキのところは高級を売りにしているでしょう?客層を考えると、(いわ)く付きの子は困るのよ、それで最初は断ったの。でもね、あのまま亜樹を追い払っていたら、どんなところへ売られたか、わかったものじゃなかった」  マキノの笑顔もそこまでだった。表情を消し、淡々とした口調で話を続ける。 「亜樹のこと、私は新人として紹介されて初めて知ったんだけれど、本当に真面目でいい子だった。だから、クロキも最後には負けたのよ。借金を肩代わりする形で話をつけて、働かせてあげることにしたの。あの子、頑張っていたわよ。あの美貌と初々しさで凄い人気が出たし。でもね、本心ではつらかったと思う。だけど頑張っていた。借金も返し終えて、あとは自分の為にお金を貯めるなんて言えるくらいにね。その頃よ、変なのに絡まれたのは……」  意識したものかどうかはわからないが、マキノの視線が省吾へと流れた。

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