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第一部 7-4 (終)
「私はそいつに言ってやった、亜樹はあんたのものにはならない、手を出すなって。だけど、あの頃の私はそいつに逆らえなくてね、殴られておしまい。クロキもそう。藤野に頼んだところで、どうしようもなくて。それが逆に亜樹を追い詰めちゃったみたいでね、亜樹は自分でそいつのところへ行ったのよ、私達に迷惑は掛けられないからって……ね」
空 になったコップを握るマキノの指先が、きゅっと悔しげにすぼまった。と同時に、ピシッという音がして、ぱっと手を離している。ひびの入ったコップが調理台を転がり、床に落ちて割れたが、マキノがしたことでないのは、マキノの驚きようでわかった。
「どういうつもり?」
マキノが省吾に向かって言った。
「もういい、その話は聞きたくない」
「それはつまりこういうことかしら?あいつと同じことをするって?ここで私を……殴ってでも……」
「俺はっ」
省吾が声を荒 らげ、バンっとカウンターを激しく叩いた。マキノに最後まで言わせないという勢いで、凄まじい音が店に響く。その音に空気が振動し、その勢いに周囲のものまでガタガタと揺れ動いている。
「俺は……あいつとは違う」
「そうよ、あいつは何も知らなかった。私達を思い通りに出来る力に酔っていただけ、だから殴ったりしたのよね。だけど、あなたは知っている。殴る必要もないってことを。化け物なんて言うのはそのせい……」
マキノがどう続けるつもりでいたのかは、省吾にはわかっていたのだろう。苛立ちも露わに立ち上がり、マキノを睨み付けている。その目付きのまま葵を見下ろし、素早い仕草で葵の手首を掴んでいた。
「おっ、おいっ、なんだよ」
この場から即刻立ち去ろうというように、手首を強く引っ張られ、無理やり立ち上がらされては、葵も省吾から身を引くしかない。嫌がったというより、驚いたというのが葵の思いだったが、マキノには無理強いにしか見えなかったようだ。マキノも椅子から立ち上がり、声を大きくして省吾を止める。
「やめなさいっ」
年長者らしくたしなめていたが、声の調子には怯えが見えた。それが省吾を激怒させたようだった。顔に暗い影が差し、それと共鳴するかのように、空気の振動が波打つ程へと大きくなっていた。
「口を出すなと言ったはずだ。聞いていたんだろ」
マキノは呆然とし、微かに体まで震わせて、諦めたように椅子に座った。葵には何が起きているのか正確なところはわからないが、ゲームセンターでも同じことが起きていたのはわかっている。漏れ聞こえて来た省吾とロウの会話の怪しさは、忘れようのないことだ。
あの時は、何をしたのかと直接に尋ねるしか方法がなかった。聡への嫉妬を匂わせて、可愛い真似事でうまく誤魔化されたが、葵の疑念が晴れた訳ではない。それをここで蒸し返したところで、無駄だろう。省吾がマキノを脅してまで隠したがることが何であれ、尋常ではないマキノの怯え方を見ると、葵は何か言わずにはいられなかった。
「やめろよ、この人、怖がってるぞ」
葵の余りにあっさりした言い方に、そこで起きていた何かが消えたようだった。省吾は頑固に苛立っているが、マキノの方は緊張を解き、椅子に深く座り直して、気持ちを切り替えている。
「ありがとう。でも、いいのよ。さっきのような言い方をされたら、私達が何も出来ないのを、この子は知っているから。知っていてしたことだと、私達にもわかっているの。そういう嫌な子にもなれるのよ。だけど、私達がこの手で育てた大切な家族だし、何をされても許しちゃうのよね」
マキノの話は、お節介な奴だと目の前で罵られたようなものだろう。葵は助けた自分が間抜けに思え、苦々しい思いで省吾の手を振り払おうとした。悔しいことに、びくともしなかった。田舎では、省吾よりも大柄の上級生を何人も倒しているが、不思議と省吾には全く機能しないでいる。こうしたことは本来なら怖がるのが筋かもしれないが、惨めには感じても、葵には省吾を恐れる理由がない。
「あんた、何を怒ってんのさ」
にやついた顔を省吾に向け、のほほんと続けた。
「オヤジのことで、俺は傷付かないと言っただろ。あんたが傷付けば、話も変わるけどな。俺だって傷付くかもよ」
「クソっ」
省吾自らが言ったことだ。それを省吾も思い出したのだろう。今の省吾がまさにそうした状態だった。マキノが話す父親のことで傷付いているのは葵ではなく、省吾だった。それを承知の上で、葵は敢えて口にした。誘い出されてからずっと、飄々とし、巧みに話をはぐらかされているが、初めて感情を剥き出しにした省吾には親しみのようなものさえ感じた。手負いの獣のように、こちらが怪我をすることになったとしても、葵には本音での付き合いの方が扱いやすい。
「あんたは俺のオヤジには興味がないんだよな?」
「人でしかないおまえの父親に価値なんかない」
「それなら、俺はなんだってのさ」
葵は意識してひややかな眼差しを省吾に向けた。
「いや、違うな。俺じゃない、あんたが何かってことだ」
葵の決め付けが、省吾を落ち着かせたようだった。苛立ちが和らぎ、憎らしい程の優美な顔にも余裕が戻って来ている。省吾は怒りを収め、わざとらしく意地悪さへと変えて、葵が二度とするなと言ったことを平然とする。葵の手首を握り締めたまま、引きずるようにして店の奥へと歩き、靴を脱ぎもせずにずかずかと二階への階段を上り始めている。
「ホント、あんた、わかんねぇ野郎だな」
「わかっているんだろ?また馬鹿なふりか?」
「クソがっ」
葵にはどうすることも出来なかった。せめてもの望みをマキノに託し、顔を向けてみたところで、こちらをちらりとも見ようとしない。家族というだけあって、どれ程に怯えようが省吾の味方であるのは確かなようだ。マキノはおっとりと、独り言というにはおかしな内容を、夢見心地に話していた。
「ふふっ、あなたもそう思う?私が教えたのはなんだったのって?本気になったら、こんなにも不器用になるなんて、あなただって思わなかったでしょう?省吾にもちゃんと人の子らしい可愛さがあって良かったって?そうねぇ、うふふふっ……」
何故そこで笑えるのだろう。二階への階段を上らされる葵の耳に、マキノの楽しげな笑い声が訳もわからず響いていた。
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