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第一部 8-1

 省吾が靴を脱ぎもせずに二階への階段を(のぼ)ったのには理由があった。土足で上がれる部屋だと知っていたからだが、それ以上に、葵と二人きりになりたいという思いに駆られたからだった。マキノが話したあの男との違いを認めることが、皮肉にも、省吾には自分を否定するように思え、我慢がならず、それを葵にぶつけたくなった。  『鳳盟学園』の中等部に入学して間もない頃のことだ。大人ぶってこの部屋に足を踏み入れたあの日と、何も変わっていない。クロキの劇場から貰い受けた真鍮のベッドだけが、目的を示すように置かれてある。簡素な部屋にはそぐわない贅沢な一時(ひととき)に合わせたシーツの光沢も同じだった。誰にも邪魔をされず、愛を必要としない夢の世界が約束された部屋であることは、かつて目にしたあの頃と何一つ変わっていない。 〝ふふっ、見られているようで、嫌なの?それなら、命じなさい〟 〝……見るな、見るのを許さない〟 〝そう、それでいいの〟  熱を帯びた掠れ声が呼び覚ました記憶に、ベッドで繰り広げられた淫靡な刺激の数々が続く。省吾は愛を求めない愉悦の始まりを、その後の快楽の戯れを、過去へと置き去りにしたはずの夢の残骸を部屋に見る。 〝……殴ってでも……〟  同じ掠れ声が、葵も夢の一つにするのかと、省吾を責める。 「俺はあいつとは違う……」  省吾は口の中で再び掠れ声に言い返していた。  それなら何故、葵をこの通りに連れて来たのだろう。暴力という形に見えるものではないにしても、葵を追い詰めようとしたことには違いない。この部屋に引き入れた目的にしても、あの男がしたことと何が違うというのだろう。信頼を意味のないものにして、何も考えさせずに囲い込み、自分だけを求めさせ、全てを受け入れさせる。あの男がしたことを、省吾も望んでいる。  省吾は嫌でも認めるより他なかった。あの男が人生でただ一度だけ、本気で欲しがったものがあったのだと、そこには愛という安っぽい言葉では語れない程の鮮烈で狂気じみた欲求が存在したのだと、嫌でも理解するしかなかった。その激しさの裏で求めたものが、死なのだろうか―――。  祖父の剛造も同じようなものなのかもしれない。しかし、あの男はどうか知らないが、剛造が求めるものが死でないのは見えていた。個人的な確執を持つ相手は、今もきちんと生きている。  そこに気付いた時、省吾は身のうちに潜み、意志をも侵そうとするものと響き合うのを感じた。それも葵を求めている。温もりを失った(むくろ)としてではなく、血の通った人としての葵を欲している。省吾は自分の中に競争相手がいるおかしさに喉を震わせたが、意志を強くして、何もなかったかのようにそれを追い払った。 「おいっ」  葵の声に、省吾の意識が現実へと引き戻される。葵はベッド以外何もない部屋に驚きを隠せないようだった。クロキの劇場にいた時でさえ、しっかりした口調で話していのに、呼び掛けられた声には暗い淀みを感じさせる。 「この部屋……?」 「見たままさ」  省吾は葵の手首をグイッと引き、体ごとベッドの上に投げ捨てた。逃げ出せないよう、素早く馬乗りになるが、省吾の意に反して、葵は全く抵抗を見せなかった。それどころか、足のあいだに組み伏せられても、ベッドに体を預けて寛いでいる。 「あんた、さかり過ぎだぞ」  馬乗りになられた上に、両腕を押さえ込まれて完全に自由を奪われても、葵はニヤニヤするばかりで、恐れを全く見せていない。僅かでもその身を守ろうとしない葵に、省吾の方が苛立ちを感じた程だった。  お陰であの男との違いを知ることが出来たような気がする。こうした時に、あの男が苛立ちを感じたりするはずがない。独善的に相手を好きにするだけだ。年齢的な隔たりをなくせば、酷似した容姿のあの男とは、そこが明らかに違う。 「怖くないのか?」  省吾は誰をも虜にする柔和さで、答える代わりに質問を返していた。馬鹿げた問い掛けだとは思ったが、この時だけは葵を独占する喜びをその秀逸な顔に浮かべて、楽しげに問い掛けていた。 「こんな部屋だからね、怖がるのが普通だろう?」 「店の上がこんなだってのは思わなかったけどさ、怖いってのはないぞ」 「慣れているから?」  省吾は矢庭(やにわ)に起きた胸のむかつきを無視し、物柔らかな口調のままに、さり気なく続けた。 「そうだった、おまえには聡がいたね?」 「はぁ?そんなんじゃねぇっての、鬱陶しい野郎だな」  聡を引き合いに出されたのが気に入らないのだろう。葵はむすっとした顔で体を起こし、その勢いで省吾をどかそうとしたが、どうにも動かせないとわかると、諦めたようにドサッとベッドに体を戻している。省吾に対して、なす(すべ)がないのが腹立たしくてならないようだ。悔しげな中にも妬ましさを覗かせ、さらには情けなさと羨ましさを、類い稀な美貌に映し出している。  省吾は葵のその複雑極まりない表情が気に入った。聡も知らない自分だけのものに思えて、気分が良くなる。反対に、葵の気分は最悪だろう。それがわかると、藤野やマキノによって暗鬱にされた省吾の気持ちも晴れて行くのだった。

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