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第一部 8-2

「あんたさ、わかってねぇよな?」  不機嫌にしていた省吾が急に楽しそうな顔をしてみせたのを、葵が訝しげな眼差しで見返している。 「俺がその気になんないと、あんたは少しも楽しめないぞ」  わざとらしく突き放すようなひややかさで言い、ふんと鼻先で笑う。強気な態度を崩さない葵の余裕が憎らしいのに、省吾にはそれも楽しいものに映った。 「そんなことはわかっている」 「へぇ……何がさ」  省吾は葵の表情に微かな翳りを見出し、余裕の中にも警戒心が生まれたのを感じた。ほんの僅かでも、葵に緊張が走ったことに笑いが込み上げ、より一層に気分も上向く。 「心配しなくてもいい。おまえが思うような下品な真似はしないよ」  ホームで見掛けた時は、(まさ)にそうするつもりだった。もちろん葵からそれを望ませ、互いに楽しんだあとで、後腐れなく終わるつもりでいた。比類ない美貌にしても、時間が経てば大したことはない。見慣れるものだと思っていたが、葵が自分のものであることを、生まれた瞬間に定められていたと感じた時から、その美しささえ特別なものに変わっている。  藤野に操られていようが、どうでもいいことに思えて来た。省吾が藤野達大人に許したのは眺めることだけだが、彼らが口出ししたがった気持ちも、わからなくはない。かつて同じ美貌を求めたあの男がしたような愚かさで、葵を手に入れる訳には行かない。あの男の愚かしさを真似て、急ぐことだけは決してしまいと思う省吾だった。 「確かめるだけさ、自分を篠原だと言ったおまえが、本当にただの篠原でしかないのかどうかをね」  省吾は葵の腕を押さえていた手を離し、葵のベルトのバックルへと移動させた。葵が省吾の器用な指の動きに呆気(あっけ)に取られている()に、事態はずんずんと進めるものだ。葵が自由になった腕を振り上げて殴り掛かって来たが、その時にはもうズボンからシャツを引き出し、腹をさらして、臍が見えるまでにしていた。すらりと伸びた指をボクサーパンツの中に滑り込ませた時には、強気の葵もたまらず叫んでいる。 「やめろっ、無駄だっつてんだろっ」  省吾は殴り掛かろうとする葵の手首を左右一緒に片方の手で掴み上げ、優しく言った。 「おまえの意志がどこまで持つかな?」 「クソがっ」  葵にも理解出来ない体の反応が省吾の手を濡らした瞬間、葵の意志の崩壊が始まった。官能的な刺激に屈したかのように、背中を緩やかに反らして行く。クロキの劇場で思い描かされた幻想が、葵の父親が見せていたものが現実となる。省吾もまた、男達が興奮しただろうそれに、その為に作られたような肉体に目を見張り、華麗でしなやかな肢体が見せる妖艶な揺れに我を忘れそうになった。 「……あっ、っ……」  葵の熱い吐息が導くものが省吾の手を濡らし、その迸りと呼応した時、それは現れた。乱れたシャツの裾から覗き見るかのように、人が放つ臭気を甘やかにするそれが、省吾を見返していた。  省吾の瞳に日が差したような光が現れたことは、省吾には見えていない。臍の下辺りが熱を持ち、暴れ出しそうな気配があることを感じるだけだった。省吾は痛い程の熱を、より強固な意志でねじ伏せ、葵の臍の下辺りを見詰めることだけに集中していた。  その一瞬の逢瀬のあと、省吾の意志に勝ちを譲ったのを示すように、瞳に現れた光が輝きを消し、葵の臍の下辺りに現れたそれも葵の意識と共に消え失せていた。葵は脱力したかのように目を閉じ、次の瞬間、すうっと穏やかな寝息を立て始めている。 「葵を守ったのか?」  省吾はそれが現れた場所へと、迸りに濡れた手のひらを這わせて行く。しっとりした肌の滑らかな吸い付きを手のひらに感じながら、それが現れた場所を、省吾にとっても馴染みなその場所を、濡れたその手で覆う。 「逃げ場はないぞ……」  省吾の顔に暗く恐ろしげな影が差したのと同時に、物柔らかな声音の裏側に険しい響きが重なり合った。 「……契りは破られたのだからな」  省吾は自分が自分であるのを認めながらも、自分とは違う何かであるようにも感じ、震えが起きる。それが許せずに、葵の腹に這わせた手のひらをさっと引き戻していた。勃然と湧き上がる怒りに、濡れる手を拳にして、葵の上から降りる。 「逃げ場がないのは俺も同じだ」  省吾はベッドを離れて洗面所へと向かった。袖口が濡れるのも構わずに、蛇口から流れ出る水に手を浸し、鏡に映る見慣れた顔が醜い化け物へと変化していないかを確かめた。 〝血に棲むものは……〟  いつもと同じその顔に、掠れ声の寝物語が記憶の奥深くから蘇る。 〝血に棲むものは、肉体が危うい時に、意識を暴走させて勝手に動くの。だから、それよりも、より強い意志で押さえ込めるようにしておかないとダメなの。省吾が人としてある為にはね。生死の境にある時もだけれど、性的な興奮にある時も、同じようなものよ。我を忘れてはダメということ〟  耳に残る掠れ声に教えられたことを、葵はどうやって乗り切ったのだろう。省吾には疑問でならない。葵は自分がその気にならなければ少しも楽しめないと、迷いもなく平然と言い切っていた。

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