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第一部 8-3
「そういえば、生きるか死ぬかというくらいの風邪をひいたと言っていたな……」
たかが風邪と馬鹿に出来ないのが、省吾にもわかる。血に棲むものが暴走しそうな出来事でもあるからだ。葵の母親がどう伝えたのか知りようがないが、葵は自分の意志で肉体を制御し得ることを自然に受け入れている。むしろ母親から何も聞かされていないと見るべきかもしれない。知識があるから幸せであり、うまく行くとは限らない。葵が自分に対して何も疑問に思わずに育ったことが、省吾には羨ましくもあった。
「葵がこの町で生まれ育っていたら、どうだ?」
省吾は鏡に映る自分の顔に向かって語り掛けた。
「いや、無理だな。葵は生まれて来れなかった。香月の娘が男と逃げてくれたから、葵が生まれた」
そう言いながら、ほんのりと葵の匂いをさせる飛沫 に濡れたネクタイに、省吾は気付いた。それを取ってポケットに突っ込み、シャツのボタンを胸元まで外す。棚からタオルを引き出し、お湯で湿らせてからベッドへと戻った。葵を見ると、安心し切ったように熟睡している。省吾は健やかに眠り続ける葵に顔を顰め、それを気遣う自分に腹を立てた。
「俺をなんだと思っている?……クソっ」
悔し紛れに悪態を吐くが、濡らしたタオルで後始末をしてやり、皺にならないよう乱れた制服も元通りにしてやった。大して汚れていないことには驚かされるが、人としての意志の強さなのか、一瞬の逢瀬に現れたものの力なのか、この熟睡ぶりからすると、やや人の方が優位にあるような気がした。
省吾はタオルを洗面所の籠に投げ捨て、葵の顔がよく見える場所を選んで、ベッドの端に腰掛けた。省吾の重みでマットレスが傾いたせいか、葵が寝返りを打ち、省吾の近くに体を寄せて来る。
「母さん、なんで……なんで謝るんだ……?」
気持ち良さそうに寝ていた葵が、不意に眉間に皺を寄せ、苦しげに呟いた。起きたのかと思わされた呟きも、目を瞑 ったままなのを見て、寝言だとわかる。省吾は葵の髪をそっと優しく指で梳 き、張りのある素直な感触を楽しみながら、小声で問い掛けた。
「何があった?」
葵が答えるはずはない。求めてもいなかったが、葵が答えようとするかのように、より体を寄せて来たことで、省吾は満足していた。
何もしない穏やかな時間を、こうして二人で、どれ程のあいだ過ごしていたかはわからない。時間を気にする感覚が省吾にはなかったからだが、ふと上着の内ポケットに入れたままのスマホが鳴っているのに気付き、夢に落としていたような意識も、今のこの時へと浮上する。
省吾は葵の頭から手を離し、静かに立ち上がった。猫の額 程のベランダへと通じる窓に向かい、空気を入れ替えるように少し開けてから、窓枠にもたれてスマホを取り出した。画面に表示された名前にニヤリとし、通話ボタンに指を滑らせる。スマホを耳に当て、物柔らかな口調で答えた。
「なに?」
「おっと、出やがったな?」
「誰かに様子を探れと言われたんだろう?」
「ロウが俺にメールして来きたのさ。マキノが気にしている、やけに静かだとね」
誠司の男らしい尊大な話しぶりには、笑いが浮かんでいた。からかわれているのだとわかるが、普段と何も変わらない誠司の口調に、省吾も普段通りの気楽さで応えていた。
「俺は変態じゃない。寝てる相手をどうこうしたりしないさ」
「寝てる?」
思いもしなかった答えだったのだろう。誠司の声が微かに裏返った。それが省吾の気分をさらに明るくして行く。
「ああ、ぐっすりとな。イキがったって、まだ十五かそこいらの子供だよ。親しい者が誰もいないこの町に来て、気を張っていたんだろうね」
「……お優しいことで」
それが嫌みだとわかっても、気にならなかった。誠司が相手なら、会話の全てが誰の耳にも届けられていないと知る省吾は、誠司の当てこすりにも素直になれる。
「俺は優しい男だよ、知っているだろう?」
省吾は遠慮のない言い方をし、それに対して誠司が小気味のいい笑いを返していた。
「そうだ、担任にはおまえのこと、腹を壊したから休んだと伝えたておいたからな。俺と違って、おまえはクソ真面目に過ごしているだろ?だから、あの野郎、やたら心配しやがってさ、〝一緒に暮らす君は元気なのに〟なんて言ってよ。めちゃくちゃ残念そうにだぞ。あいつ、いい年して、絶対おまえに惚れているな。それがなんか気に障ってさ、俺の知らねぇところで変なもんでも食ったんだろって、言い返してやった。あいつ、目を丸くして震えていやがったけどな」
担任は藤野よりは若いが、それなりの年齢で、惚れるというのはまずない。自分に対する担任の態度の違いに、誠司がむかっ腹を立てたという話で、それには省吾も笑うしかなかった。寝ている葵を気にして声を抑えるが、くっくっと楽しげな笑いが漏れてしまうのは止められない。
「葵は?あれにはいないだろう?おまえのようなのが?」
「中等部のことだからな、俺が出て行ったら逆に目立っちまうさ。規則通りに、学園から香月の爺さんのところへ連絡させた方が自然だろ?」
「そうだな、その方が無理がない」
二日しか学園に通っていないが、だからこそ、葵自身が個人的に学園を無断で休んだとした方が、誰の目にも普通に映る。葵は秘密にするようなことかと言っていたが、誰とどこへ行ったかを隠すかどうかの判断も含めて、葵の好きにさせることにした。葵が何をどう話そうが、省吾には取り立てて気にする程のことでもない。葵の好きにさせるというのも、省吾にとっては、この手のひらで転がすようなものだった。
「それよりも……」
そこで省吾は口調を重くして言った。
「葵の両親の事故のこと、伯父さんは何か言っていた?」
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