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第一部 8-4 (終)

「オヤジが?」  それとなく聞いた省吾の声音に、厳然とした憤りがあることを、誠司には気付かれていた。誠司は省吾に合わせるかのように、少しだけ口調を改めてから続けている。 「俺は別に何も言われていない。事故のことは、アレが香月の爺さんと暮らす理由として教えられた。省吾、おまえ、何か気になったことでもあるのか?」 「たまたまでも、事故がなければ、葵がこの町に来ることはなかった。香月とは無縁のまま、人生を終えることだって出来たよね。葵の母親が男と逃げたのだって、それが理由だよ。葵が言っていたんだ、好き合って逃げたにしては、おかしいとね。結婚するまでの二年、二人は姉弟(きょうだい)のように微笑ましく暮らしていたらしいけど、葵はそれをおかしいと言ったんだ。二人で逃げたのは確かでも、駆け落ちはしていなかったとね。それなら、何故、香月の娘は一緒に逃げる相手を、美貌のストリッパーにしたのか、気になるよね?葵には理由がわかったみたいだけど、俺が気にするのはそこじゃない。理由と事故には共通するものがあるように思うんだ、葵はそこまで思っていないけどね。だけど、俺は偶然というものが好きじゃないんだよ」 「はっきり言わせてもらうけど、俺はアレとかかわりたくないぞ」  それでも、省吾が口にしたからには、かかわるしかない。誠司の複雑な思いは理解するが、誠司が自身の拘りを捨てても省吾の思いを優先することを、省吾は微塵も疑わなかった。誠司がうんざりした溜め息と共に続けた言葉に、その考えに間違いのなさを感じて小さく笑った。 「今夜にでもオヤジに呼ばれるだろ。聞いておくさ」  ナギも話していたが、藤野は省吾に言うべきことがあると、誠司への叱責としてそれを伝える。省吾がどう思ったかを知るのは誠司だけだが、藤野はそうすることで、自らを化け物と呼び、彼らと共鳴も出来ないことに苛立つ省吾の孤独さに、寄り添おうとしているようだった。 「ああ、頼むよ」  省吾は軽い調子で答えたが、それを待っていたというように、誠司が勢い付いて言った。 「で、おまえに伝言がある。母親からの絶対命令ってのだけどな」 「また?あれか?」  絶対命令が何かはわかっている。誠司の母親から、寄り道せずに帰って来るようにとのメールが届いたということだ。命令が何かも、常に決まっている。 「よりによって、おまえがアレとふけやがった今日かよって、メールを見た時はぞっとしたぞ。あのクソまずい菓子もどきを()わされるのが、俺一人になるからな。オヤジの奴、新婚早々に食わされてからは、仕事にかこつけて逃げ回っているだろ?俺が食える年になるまでは、オオノが犠牲になっていたが、あいつも俺に押し付けやがったからな」  オオノとは藤野家の家令(かれい)で、家事全般の管理と使用人の監督を任されている男だった。藤野の昔馴染みということだが、オオノ自身にも得体の知れないところがある。藤野と同年輩で、藤野が実業家としての地位を確立させた頃から家令として勤めているが、誠司の母親である伯母の真理(まり)を迎えてからは、もっぱら真理の世話を仕事としている。誠司が生まれると、誠司の教育係も買って出ていた。 「オオノの野郎、事あるごとに俺に言いやがったからな、忘れようったって忘れられない」  そのオオノの言葉は、省吾も幾度となく聞かされていた。 〝お母上の心のこもったお菓子を、おいしく頂きになられることも、人としてのお子様の務めでございます〟  オオノは誠司がおくるみに包まれていた頃から、子守歌代わりに、腕に抱いてその言葉を聞かせ続けていた。省吾が引き取られるまでのあいだ、幼い誠司がゲェゲェと()きながら食べていたという話は、伝聞として今も話題にされている。 「ほんのチビ助の俺が、それを守っちまったのが運の尽きさ。おまえが来てくれてからは、俺の苦行も半分に減ってくれたけどな」 「心配するな、葵のことはマキノに任せて、そろそろ帰ろうと思っていた」 「恵理子様だかなんだか知らないが、聖女の誓いなんてもん、いつまで続ける気なんだよ。母親なんて、次の会合の幹事会がうちで開かれるっていうんで、張り切っちまってる。聖女の(たしな)みなんてアホらしい理由で、手作りケーキを振る舞うのは、勝手にしろって感じさ。だけど、なんで俺がクソまずい試作品を食わなきゃなんないんだ?あの女どもがなんて言ってるか知ってるか?〝真理様、今回も個性的なお味でございました〟だの、〝前回に比べましたらより独創的と言えましょうね〟だぞ。はっきり言ってやれっていうの、クソまずいってな」  そういう誠司も、オオノに言われたことを後生大事に守り続けている。文句を連ねても、幼い頃とは違って、母親の真理を傷付けないようにしているのだから、笑える話だと省吾は思った。 「彼女たちの目当てが、口直しに出される、藤野家の料理人のデザートにあるのだから、仕方ないさ」 「アオか?あいつもダメだ。〝うっっ〟と〝うううっ〟しか言わない野郎を、どうやったら味方に出来る?」  料理人といっても、元々は藤野家の下働きをしていた程度の者だった。名前はアオというが、無口でおとなしい男にとって、真理の物怖じしない闊達さは未知の領域だった。アオは真理に心酔し、真理の為なら料理だろうと何だろうと、黙々と遣り遂げるようになった。特に料理に関しては、真理が最も不得手(ふえて)とするものであったせいか、数年で一流の料理人にも引けを取らない腕前に成長したが、アオにとってはそれも真理の為だけにある。  誠司が言う〝女ども〟の彼女達も、そのことは十分に承知していた。高級レストランでも味わえないデザートを、(しょく)せるかどうかの審判がかかっている評価だ。心にもないお世辞を言えば、アオの機嫌を損ね兼ねず、さりとて真実は告げられずで、言葉を選ぶのも致し方ないことだった。 「逃げんじゃねぇぞ」 「わかっているよ」  誠司に最後にもう一度だけ念押しされたことに答えてから、省吾は電話を切った。くだらない話で誠司と笑い合うのは、子供の頃から楽しいものだった。今も、無意識に口元に笑みを浮かべている。その笑顔のまま、上着の内ポケットにスマホを戻し、窓枠から身を起こした。視線が自然とベッドで眠る葵へと向かったが、その時には笑みも消えている。  葵とも誠司のように気楽に話せていたが、葵にはそれだけではない別の感情が入り込む。肉体と意識の両方を熱く刺激するそれが、人としての望みなのか、血に棲むものとしての求めなのか、葵を前にすると、意志を強くしたところで、省吾にもわからなくなって来る。それでも葵が自分のものであることに、迷いは起きなかった。 「おまえは気に入らない?」  省吾は品のある物柔らかな口調で、一瞬の逢瀬に向かって囁いた。 「聡はおまえが選んだのか?」  声音が心持ち低く沈んだことに気付き、省吾は意志を強くして、身のうちへと警告を示すかのように、少しのあいだ葵を熱く眺めた。その熱が自分のものと確信したあと、背を向け、足音を忍ばせて階段を下りて行った。

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